【今日の新聞から】東大前死傷事件の男が憧れた医師・吉岡秀人氏とミャンマーで「軟禁」された私の思い出

今朝の新聞には驚くことが書いてあった。東大前死傷事件を起こした男が法廷で「憧れの医師」として名前を挙げたのが、吉岡秀人氏だというのだ。中学2年生のときに吉岡氏のドキュメンタリー番組を見て、医者になりたいと決意したのだという。
そんなことを思って人を殺傷しようとすること自体がナンセンスだが、今日の話題においてはそれはさて置き、実は私は吉岡秀人氏のドキュメンタリー番組を制作している。だが、それは2005年放送なので、この男が見たものではない。

吉岡氏は今日の新聞の記事の中で、学歴重視の社会風潮に警鐘を鳴らしている。どちらかというと吉岡氏は(失礼ながら)医師としては高学歴ではなく、苦学をして、早くからアジアの発展途上地域での実践を積み、医師としての実績を重ねてきた人だ。私の番組も、厳しい状況の中でミャンマーで小児医療をおこなう吉岡氏を追ったものだった。
記事の初老になった吉岡氏の写真を見ていると、まざまざと当時の思い出が蘇ってきた。
テレビせとうちの開局20周年記念特別企画として放送された『ミャンマー発!日本人医師の国際貢献 ここに〝いのち〟あるかぎり〜難病のウィン君を救え!』という番組のことだ。先天性の難病によって首に体重の5分の1以上の腫瘍ができて、生命の危険にさらされているチョウ・スー・ウィンくん(3)を救うため立ち上がった吉岡医師の奮闘を追ったドキュメンタリーである。吉岡氏が率いる医療奉仕集団ジャパンハートは、まだ始動したばかりのころだった。
取材当時2004年のミャンマーは、アウン・サン・スーチー氏が軟禁され、軍事化への一途を辿っていた。今日は、この取材のときの苦い経験をお話ししたい。

私も、ミャンマーでの取材中に軟禁されたのだ。
理由は「撮ってはいけないものを撮ったから」。ミャンマー国内で車内からの車窓映像を撮っているときに、ある村に差しかかった。当時のミャンマーのインフラはひどく、大雨のあとで村の家々は屋根近くまで水没していた。その映像が検閲に引っ掛かったのだ。当時のミャンマーでは、撮影のときに必ずフィルムボードというリエゾンオフィサー(政府の役人)がつく。いわゆる映像のチェックマンだ。
おそらく「軍部の汚点」ということなのだろう。その映像を消せと迫られ、すでに吉岡氏の部分を含めかなりの撮影をしていた私はその申し出を断った。すると翌日からホテル内のある部屋に閉じ込められ、寝させてもらえない日が続いた。その間、取材班は観光地巡りをしてダミーの撮影をさせられていた。私はと言うと、朝から晩まで「ミャンマーに来てからしていたこと」を事細かくノートに書かせられ、それを通訳が軍部の役人に訳すのを待っていて、またその役人の言葉を通訳を通して聞き、それを「反省文」として清書するということを朝から晩までやらされていた。いや、朝なのか夜なのかもわからなかった。つまり「延々と」である。すとき役人は言った。
「ミスター田淵、あなたには撮影したテープを差し出すか、牢屋に入るか、選択肢は2つしかない」
私は「どちらも嫌だ」と言った。吉岡氏が命を懸けてこんな〝ひどい〟国にやってきて、そして全然足りない医療環境の中で、ひとりでも多くの〝ひどい〟国に生まれた罪もない子どもの命を救おうと頑張っている。その様子を撮ったものを渡すわけにはいかなかった。
1週間がたったころだ。睡眠不足で頭がマヒしていた私は自分でも思わぬ行動に出た。
急に涙をボロボロ流しながら土下座をしたのだった。土下座をして頭を何度も地面にこすりつけながら、日本語で「日本が戦争に負けたとき一番に日本に米を送ってくれたのがミャンマーだった。そんな恩義に応えたいと頑張っている人がいる。そんな日本とミャンマーの架け橋の物語を日本に伝えたいんです。村の水没シーンは放送しません。だけどテープは渡せません。いままで撮った部分は二度と撮れない貴重な映像だからです」そんなようなことを言ったと思う。私の脳にはすでに策略や思惑を巡らせるスペースなど残っていなかった。
その瞬間に急に役人の態度が軟化した。ミャンマーは敬虔な仏教国だ。どの国民も寺に行くと仏像に向かって頭を深々と下げて手を合わせる。生きた人に対して土下座をするのは、相手が僧侶であるときだけだ。私が土下座をして頭を地面にこすりつける行為はまさに、僧侶や活仏に対して行うものだった。役人は苦笑いをしながら、私に「頭を上げて、立ってください」というようなそぶりをした。「そこまでされるのでは仕方がないな……」そんなふうに相手は思ったのだと、のちに知らされた。

以上、簡単にかいつまんでの思い出話になってしまったが、今朝の新聞の吉岡氏を見ていて、一瞬にしてそのときの風景が蘇ったのである。
ちなみに吉岡氏は1965年生まれ、私は1964年生まれで一歳違い。そのときの二人の年齢は39歳と40歳であった。

J-SAT HPより ウィンくん

J-SAT HPより 当時の吉岡秀人氏

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