【今日のタブチ】追悼:人生の「大事なこと」は、ほとんど仲代達矢氏に教えてもらった①――30歳の私が出会った《暗黙の師》
名優、仲代達矢氏が11月8日未明、肺炎のため亡くなられた。
2007年には文化功労者、2015年には文化勲章を受章している、まさしく国民的俳優である。
訃報が流れた後、多くの知人からブログなどに追悼文を出さないのかと言われた。しかし、言葉が紡ぎ出せなかった。あまりにもショックというか、現実味がないというか……私のなかで、仲代氏は「永遠に存在しているもの」だったからだ。
人生の「大切なこと」は、ほとんど仲代氏から教わったと言っても過言ではない。仲代氏は「こうですよ」とか「こうするべきだ」といったような決して“押しつけがましい”ことは言わない。だからこそ、その言葉や振る舞い、行動から私は「そうなんだ」「そうするべきなんだ」と自然と学んでいたと言った方が正しいかもしれない。仲代氏は「沈黙の師」であり、行動で教える人だった。しかし、「啓示」のような大事なことは、そのときではなく、後になって気がつくものだ。
仲代氏と最初に出会ったのは、1996年の私が30そこそこの頃だった。やっとの思いで通ったテレビ東京開局35周年の記念番組のため、私はナビゲーターとなってくれる俳優を探していた。当時は、若く血気盛んで、勢いもあった。同時に“生意気”で“怖いもの知らず”。ドキュメンタリーの特番を連発し、正直、「自分の名前を出せば、企画が通る」と思いあがってもいた。
仲代さんと初対面は、今でも銀幕のワンシーンのように蘇る。
出演をお願いしたが、当初は何度も断られ続けた。再度、私が無名塾に伺ったときに仲代さんは日課のランニングで出ていた。マネージャーの松木さんに「いつ帰るかわかりませんよ。気まぐれですから」と言われたが、私は強引に「待たせていただきます」と譲らなかった。
しばらくして、仲代さんはランニング姿で戻ってきた。「ランニングは本当だったんだ」……それが私の“浅はかな”感想だった。いま考えれば、仲代さんが嘘をつく理由やメリットなど何もないことはわかる。その瞬間、仲代さんは意外そうな顔をした。後で聞くと、「そんなに長い間、待っているとは思わなかった」そうだ。しかし、それでも私は断られ続けた。何度も手紙を書き、仲代さんでなければならない理由を若造の私なりに述べた。
この例からも、私が仲代さんから多くのことを“知らず知らずのうちに”学んでいることに、賢明な皆さんはお気づきのことだろう。相手が嫌がっているときにどうするべきか、そのときに自分はどうしてもお願いしたいとしたらどうするべきか、そして自分の思いを伝えるためにはどうするべきか。また、そんな一方的な思いを相手はどう受け取っているのか。「押すこと」しか知らない私に、数多くのことを仲代さんは教えてくれた。
そもそも、私は「俳優・仲代達矢」をなぜドキュメンタリーに引きづり出そうと思ったのか。
当時は、今以上に「ネイチャーリングもの」という大自然をテーマにしたドキュメンタリーが多く作られていた。テレ朝には「ニュースステーション」の特集として定期的に「ネイチャリングスペシャル」が作られ、フジにも「感動エキスプレス」などの定期的なネイチャーリングものが存在した。説得力のある俳優をナビゲーターや旅人に起用するという手法もこの時代に確立された。しかし、仲代氏のような「往年の大スター」をキャスティングする例はそんなに多くなかった。
私は短絡的にも「定説であるベーリング海峡渡米説ではなく、縄文人が海を渡っていったという、いわば荒唐無稽な説に説得力を持たせるためには、誰もが知る国民的スターという納得感が必要だ」と考えたのだ。
私は大学時代に見たある映画が強烈に印象に残っていた。それは「鬼龍院花子の生涯」である。夏目雅子氏の演技も素晴らしいが、なかでも親分の鬼政役の仲代氏の存在感は、若い私にとって目に焼き付いて離れないほどだった。そんな強烈な「インパクト」がこの記念番組には必要だと思ったのだ。
話が長くなってきた。この番組は、テレビ東京開局35周年記念番組「仲代達矢・海を渡りて ネシアの旅人〜もうひとつの海のシルクロード」というタイトルだ。私は若輩にも、プロデュース・演出を務めさせていただいた。そして、語りは役所広司氏であった。
昨日、仲代氏の訃報を聞き、眠っている夢の中でも、仲代氏との苦しかった、しかし、楽しかった、かけがえのないロケの日々がワンシーンワンシーン、走馬灯のように蘇ってきた。その話は、一回では語れない。明日以降に持ち越したい。
先ほど、仲代氏のお通夜から帰ってきた。
仲代氏の穏やかなお顔を見て、「なんて私は幸せ者だったのか」と自分の人生に感謝した。私財をなげうって後塵の育成のために「無名塾」を妻と共に設立し、全国巡演を続けながら若手育成に尽力した。私が第二の人生を考えたときに、教職を選択したのは、その影響が大きかったとつくずく実感したからだ。
「ネシアの旅人」のときのエピソードには枚挙にいとまがない。昨晩、私の脳裏に蘇ってしまったからだ。トランジットの空港でのワイン話。無人島への56時間の漁船の旅での出来事。役所さんから聞いた衝撃の事実。何でも食べる仲代さんが、実は……。など、エピソード満載だ。
しかし、今日はこれくらいにして、仲代氏のご冥福をお祈りして筆を置きたい。
「日経ビジネス」より



