【今日のタブチ】《刺激》と《狂気》のダブルパンチ――映画『サブスタンス』×鐘下OPAL『ドグラ・マグラ』、人間の尊厳を問う2つの挑戦
刺激的で、挑発的な作品に立て続けに出会った。映画『サブスタンス』と、桜美林大学芸術文化学群のOPAL公演『ドグラ・マグラ』。
どちらも観客の呼吸を奪い、身体と精神の境界を揺さぶる力を持っていた。今日は、この二つを並べて語りたい。なぜなら、異なるメディアと時代を背負いながら、どちらも“人間の尊厳”を問う鋭さで共鳴していたからだ。
『サブスタンス』――私はこの映画を、女性監督から社会へのアンチテーゼだと観た。50歳を迎えた元スターのエリザベス(デミ・ムーア)が若さを求め、“若返る自分”スー(マーガレット・クアリー)を別の身体として生み出す。この“ベテランと若者俳優の共演”こそが、本作の核心だ。二人は同一DNAでありながら、視線を奪い合う二つの身体としてスクリーンに現れ、男性目線と美容神話という「年代の差」によって切断されてきた女性の価値を再構成する作品にしている。若者との「協働」とその葛藤を通じて、社会が差別的に構築してきた年齢格差を鮮やかに凌駕していく。
映画の終盤、ホールに集まった事務所社長や投資家の前で血が飛び散る場面は、搾取にさらされた身体が反撃の言語を取り戻す瞬間だと私は受け取った。この読みは私だけの妄想ではない。フェミニスト批評としての位置づけや、老いた女性を不可視化する業界への風刺は、公の解説でも明確に語られている。一方で、過剰な描写がフェミニズムを空回りさせている、という批判もある。私はその反論を承知のうえで、あの血の飛沫が“観客の呼吸と心拍”を作品に巻き込むための装置として機能していたことを確信している。
もう一本は、桜美林大学芸術文化学群のOPAL公演『ドグラ・マグラ』。学内公演を観た。本学の教員である鐘下辰男氏が長年取り組んできた日本三大奇書の舞台化で、今回はゼミの学生たちが演じ切った。ぶっ飛んでいて、暴力的でパワー全開、あまりにもアグレッシヴで度肝を抜かれた。
OPAL(Obirin Performing Arts Lessons)は“授業の一環”といっても、ただの発表会ではない。第一線の演出家・振付家のもと、学生がキャストとスタッフを担い、一般に開かれた本気の創作を積み上げる教育プログラムだ。
『ドグラ・マグラ』の原作は夢野久作。精神病棟で目覚めた「私」が、記憶喪失のまま自分の過去と殺人事件の真相に近づこうとする。その道筋で「脳髄は物を考える処に非ず」「胎児の夢」「心理遺伝」といった奇妙な理論、研究者たちの思惑、家系の闇が入れ子構造で立ち上がる。犯人も真相も最後まで霧の中。読者を迷宮に誘うことで「自我とは何か」を問う仕掛けになっている。
難解だと言われるのも当然だが、舞台は意外なほど“間口を広く”取っていた。言葉のテンポ、群唱、独白、挟み込まれる所作のリズムが観客の耳と身体を揺さぶって、物語の論理ではなく“熱と狂気”をまず体験させる。学生たちの発声は覚悟があった。喉の奥から引き出す声、息の継ぎ方、間合いの作り方――それぞれが“正気/狂気”の境界線を何度も往復していて、私は舞台袖に漂う熱気まで肌で感じた。
二作品を並べて観ると、いくつも同じ線が見えてくる。
まず、“身体の支配/解放”。『サブスタンス』はテレビ産業の経済合理が女性の身体を商品にしていくメカニズムを、ホラーとして可視化した。若い分身“Sue”は、消費される美と若さの理想像だが、七日交替のルールは“自由に生きる時間の奪取”を露骨に示す。一方『ドグラ・マグラ』は、医療・学術の権威が人間の身体と意識を研究対象として扱う暴力を露見させる。どちらも“公共善”を装う制度(市場や学術)が、個体の尊厳を踏み越える場面を容赦なく照らす。
次に、“二重身(ダブル)/自我の分裂”。『サブスタンス』では同一DNAの二つの身体が週替わりで世界を占有し、自己の境界が物理的に破られる。『ドグラ・マグラ』では、記憶・家系・研究記録が入れ子になって語り手の信頼性が崩れ、観客は、物語の仕掛けによって“正気の足場”を失っていく。肉体レベルの分身(映画)と精神・記述レベルの分身(舞台)が、別々の角度から「私は誰のものか」という問いを突きつけ、観客に正気の隙間を生じさせる。
“権力の場所”も対照的だ。『サブスタンス』の権力はテレビネットワークやスポンサー判断に体現される。会議室で淡々と告げられる「更新は不可避」は、裏返せば“あなたはもう売れない”という宣告だ。『ドグラ・マグラ』は大学医学部・精神病棟が舞台。白衣と言説の正しさが人間を操作する。産業と学術、異なる顔をした装置が、どちらも人間を個性ではなく“管理可能な存在”として扱い、制度の枠に組み込んでいく。
“視覚と言語の使い方”も面白い。『サブスタンス』は過剰な身体描写で“見せる”。スローパンで舐めるように撮られる身体の断片は、男性目線を模して暴露するための戦術だ。ただし、過剰さが“逆にその目線を再生産してしまう”という批判もある。私は、過剰な視覚の暴力を“観客の身体ごと巻き込むための衝撃”として肯定したい。『ドグラ・マグラ』は言葉の密度と俳優の熱で“聞かせる”。難解さの手前に肺の振動があり、声の往復が観客の脳髄に直接届く。媒体の違いが、そのまま表現の違いを生むが、目指す場所はどちらも同じだ――観客の身体の領土を揺らすこと。
“倫理の問題”にも触れておきたい。『サブスタンス』の最終局面の“血の儀式”は、搾取に対する暴力が是か非かという問いを投げかける。しかし、監督は現実の映画祭でも女性蔑視的発言に反抗して、自作の上映を取り下げた。作品外でも倫理の線を引いていることは重要だ。『ドグラ・マグラ』は、研究倫理の逸脱(記憶操作、胎児夢の遡行)を通じて“知の暴力”を問題化する。どちらも観客に判断の責任を委ね、安易なカタルシスに逃げることはしない。
最後に、教育の場所としてのOPALを強調しておきたい。OPALは“人をつくる”制度だ。産業の“商品をつくる”制度と並べたとき、今回のゼミ公演は前者の理想形の一つだった。舞台の熱と狂気は、学生たちが自分の身体を使って“自我の迷宮”に入っていく練習の成果だ。私は素直に拍手を送りたい。恐ろしいほどの熱量で観客の呼吸を奪い、難解だと言われてきた作品に“入口”を開いた事実は、彼らの来歴になる。鐘下辰男氏の長い系譜――THE・ガジラでの受賞歴や多彩な演出経験――がゼミ公演の骨組みを支え、その上に学生たちの声と汗が積み上がった。
さらに、両者を優れた作品にしている決定的な共通点は「年代格差の凌駕」だと私は確信している。前述したように『サブスタンス』では、デミ・ムーアとマーガレット・クアリーという世代の異なる俳優が、同一DNAの二重身を演じることで、年齢差別の構造をスクリーン上で乗り越えてみせた。『ドグラ・マグラ』では、鐘下氏が長年練り上げてきた作品を、学生たちが新しい血として再演し、過去と現在が舞台上で交差する。世代を超えた協働が、どちらの作品にも“生きた力”を与えている。
『サブスタンス』と『ドグラ・マグラ』は、違う時代、違う媒体、違う制度を舞台にしながら、同じ問いに向かっている。
身体は誰のものか。自我はどこに宿るのか。権力装置の前で、私たちはどんな言葉を持ちうるのか。映画は血で、舞台は声で、それぞれの答えを差し出す。私は今日も、観客としての呼吸を作品に委ねる。そうやって自分の境界線を確認し直すのが、芸術を観るという行為の一番面白いところだ。


