【今日のタブチ】人間魚雷「回天」がつなぐ《80年の記憶》――パプアニューギニアの“生き残り兵”と現代“高校生”の挑戦

今朝のニュースを見ていると、太平洋戦争末期の特攻兵器「回天」を訪日外国人に知ってもらうツアーが、今年、山口県周南市大津島で始動するという話題が目に止まった。
太平洋戦争末期、日本が形勢不利になっていく中で開発された「回天」は、敵艦に体当たりする魚雷型の兵器で、生還を前提としない「一人乗り潜水艇」として使用された。別名「人間魚雷」山崎豊子氏の小説『約束の海』にも登場することで知られる。

回天の仕組みは徹底して“片道切符”として設計されていた。先頭部には大量の炸薬、その後方に機関・圧縮空気室、そして最後部に操縦席が置かれる構造で、高度な操縦訓練が必要であり、潜望鏡のみを頼りに敵艦を目視して突入する仕組みだった。訓練自体が危険を伴い、実際に殉職した搭乗員もいる。
搭乗員の多くは10代後半から20歳前後の若者たちで、整備員を含む死者は145人にのぼるとされる。彼らがどんな思いで出撃していったのかを想像すると胸が詰まる。

今回の企画で特に着目したのは、そのきっかけが“地元の高校生の活動”だったという点だ。
周南市の椎木双葉さんは高校生活を送りながら、英語で回天を紹介する個人サイトを立ち上げ、訓練基地跡や回天記念館を巡るツアーを自身で英語ガイドとして行う準備を進めている。広島の原爆ドームを訪れる外国客が「山口はすぐ近くだが回天を知らない」という現状に気づいたことが出発点だったという。ツアーはおおむね2月下旬からの開催を予定している。

椎木さんは、世界ではほとんど知られていない回天の存在を“問題意識”として捉え、高校1年生の時に英語の説明サイトを作り始めた。この姿勢に強い共感を覚える。大学の学びの場で私がいつも口にしている「物事に問題意識を持て」という言葉を、まさに実践していると感じるからだ。

では、なぜ回天の基地が山口県の大津島だったのか。この島には、もともと海軍の魚雷試験場や整備工場が置かれていた歴史があり、九三式酸素魚雷の発射試験場なども整備されていた。地形的にも軍事利用に適しており、山中には魚雷運搬のためのトンネルや発射訓練場が残っている。この既存施設と立地が、回天訓練基地設置の理由となった。

「回天」と聞くと、私にはどうしても思い出す人物がいる。パプアニューギニア(PNG)のウェワクで出会った川畑静氏(2018年に逝去・享年91)だ。
私はセピック川を取材するドキュメンタリーの撮影でニューウェワクホテルに滞在したのだが、そのホテルを経営していたのが川畑氏だった。彼は回天の元搭乗員で、数少ない“生き残り”である。川畑氏の話では、まさに出撃するはずだったその朝、天皇の昭和天皇の玉音放送が流れ、終戦を知ったという。彼は命拾いをし、「だから私はこの地に命を捧げるつもりで生きている」と私に語った。
戦後は映像カメラマンとして活動したのち、PNGの復興や、同地での戦没者慰霊巡拝・調査に生涯を捧げた人物である。ランプの灯りのもとで、生ぬるいビールを飲みながら、彼が背負った“運命”を静かに語るのを聞いた記憶が、今も忘れられない。

その川畑氏の思いが、80年の時を経た今、現代の高校生に引き継がれていく。これは本当に素晴らしいことだ。歴史の現場を見つめ、伝えようとする若者の姿勢は、過去を単に美化するのではなく、事実と向き合うという意味でも非常に価値がある。
戦争の記憶は、語られなければ確実に風化する。けれど、こうして次の世代が自分の言葉と行動でつなごうとする限り、記憶は途切れない。私個人にとっても、川畑氏の語った「命を拾った瞬間」と、今の高校生が抱く“問題意識”が一本の線でつながるように感じられ、深い感慨を覚えるのだ。

「読売新聞オンライン」より
回天記念館の展示物について説明する椎木さん(右)

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