【今日のタブチ】家族という一番近くて遠い「他人」――映画『どうすればよかったのか?』が突きつける“超えられない”壁の正体
映画『どうすればよかったのか?』を観た。本作は、監督の藤野知明氏が、統合失調症を発症した姉と、その姉を医療につなげなかった両親を、20年以上にわたって記録したドキュメンタリーである。帰省のたびに撮影された映像が積み重なり、この作品になった。
ある種の衝撃であった。
それは第一に、「ここまで赤裸々に家族のことを明かせるのか」という驚き、いや、恐れにも似た感情だった。家族とは、社会の中で最も外から見えにくい空間である。そこでは、外部に漏らさない類の苦悩や恥や沈黙が、何十年ものあいだ熟成される。
その閉ざされた空気に、監督の藤野知明氏はカメラで切り込んでいった。それだけで、この映画は既に危険な領域に足を踏み入れている。
観客席に座った私は、はじめの数十分、父母を責める論調への違和感を抱いていた。
だが、その違和感こそが、この映画の主題に直結する“毒”なのだと途中で気がついた。
家族の恥部を開示してはいけない、親は敬うべきだ、家の中で起きた問題は家の中で処理すべきだ——
そうしたステレオタイプな価値観こそが、姉を20年以上も「閉じ込め」「見ないふりをし」「悪化を許した」構造そのものなのだと理解した瞬間、背筋が冷たくなった。
藤野知明氏が伝えたかったことは、まさにそこにあるのではないか。
彼はただ“家族の記録”を撮ったのではない。
社会が家族という装置に託した“責任と幻想”を、内部から崩しにかかっている。
映画には家族3人しか登場しない。支援者も医療者も親戚も誰も画面に入ってこない。その“誰も来ない家”という空気こそが、20年かけて積もった閉塞そのものなのだ。そして、その空気のなかに藤野氏は、自分自身ごとカメラを置いていく。
「家族」という関係を断ち、姉の弟ではなく、“撮り手”として立ち続ける覚悟。
何度、「俺は何をやっているんだ」と思ったことだろう。
何度、「こんなのを撮っても意味がない」と思っただろう。
しかし、その逡巡ごと、この記録は積み上がっていく。
その25年分の時間が、画面の隅々に沈殿している
本編の冒頭、タイトル前に提示される二つの前提。
1)「姉が統合失調症を発症した理由を究明することを目的としていない」
2)「統合失調症とはどんな病気なのか説明することも目的ではない」
なぜこれをタイトル前に提示したのか。映画終わった後もずっと気になっていた。そして、気がついた。これは映画全体の軸を宣言するための“前置き”ではなく、むしろ“観客への牽制”なのだ。
観客はどうしても、「なぜ発症したのか」「治療は適切だったのか」といった“医学的・因果論的問い”に逃げ込みがちだ。その方が楽だからだ。
だが藤野氏は、その逃げ道を初手で断っている。
この映画は、病気の解説ではない。
これは「なぜ誰も介入しなかったのか」という問いを、観客自身へ突きつける装置なのだ。
では、なぜ介入は起こらなかったのか。
理由は単純だ。家族だから。医者の家だから。恥だから。そして——認めたくなかったから。誰もがどこかで知りながら、直視したくなかった理由ばかりだ。
映画のクライマックスで、藤野氏は父へのインタビューで、この核心をついに言語化させる。
それは見事な手腕であり、同時に、親子の関係を“作品のために壊しかねない”ような残酷さも伴っている。
だが、そこまで踏み込まなければ、この家族の本質には到達できなかったのだろう。
姉は、教育虐待のもとで統合失調症を発症し、その後も“家族の名誉のため”に隠され続けた。
「子どものためを思って隠す」という言葉が両親から語られるが、それは明らかに“子どものため”ではなく、“親が世間からどう見られるか”のためである。
そのねじれを真正面から描いた藤野氏の容赦のなさは、倫理の境界線すれすれだ。
だが、だからこそ作品は強い。
記録者が家族の内部にいたからこそ撮れた距離感、不自然なほど途切れない日常、沈黙の重さ。これは“内側から立ち上がった記録”である。
一点だけ苦言を呈したい。
発話やノイズにまで丁寧にテロップが入る演出が、映像に没入する時間をときどき遮った。
姉の発話が聞き取りづらい場面があるための措置だと説明されているが、私はそこをあえて“わからないまま残す”という選択でもよかったのではないかと思った。
映像そのものが雄弁で、沈黙が語る場面も多い。それだけに、文字の補助が映像の呼吸を少し乱す瞬間があった。
それでもなお、これほどの年月を淡々と撮り続けた監督の心労と執念、その継続の美しさに深い敬意を抱かずにはいられない。
この映画は、単なる“家族ドキュメンタリー”ではない。
家族という制度そのものを再定義する、極めて重要な作品だ。
「VIDEO SALON.web」より


