【今日のタブチ】アメリカの移民摘発が怖いと思ったあなたへ――私たちは日本で同じことをしていないだろうか
今朝、私は常磐線の特急ひたち3号に乗っている。
以前、このブログでも紹介した福島県双葉町で行う映像ワークショップの下見に向かう途中だ。その成果については明日のブログで詳しく報告したい。
さて、今朝の東京新聞を読んでいて、強く考えさせられた記事があった。
一つは大矢英代さんの「本音のコラム 票のためなら」。もう一つはニューヨーク在住のジャーナリスト・津山恵子さんの連載「考える有権者になる 言わねばならないこと」だ。どちらもテーマはアメリカの移民政策である。
興味深かったのは、どちらもアメリカに暮らす当事者の目線で書かれていることだ。
大矢さんは、カリフォルニア州各地でICE(移民・税関捜査局)による移民摘発の映像がSNSに次々と投稿されている現状を紹介している。そして、その映像を見て「ついにここにも来たか」と背筋が凍ったと記している。さらに印象的だったのは、その後のくだりだ。
大矢さんは、自身が日本国籍を持つ記者であるにもかかわらず、通勤中にバックミラーで後続車を気にするようになり、万が一に備えて滞在許可証やパスポートを携帯するようになったという。違法移民ではなくても、社会全体に広がる空気が人を萎縮させていくのである。
一方、ニューヨーク在住32年になる津山さんも、移民政策の強化によって地域社会に恐怖と分断が広がっている現状を報告し、「私もニューヨークに住んで32年で初めてそうした恐怖を感じている」と書いている。
私はこの二つの記事を読みながら、政治的な主張よりも先に、その「恐怖」の生々しさに引き込まれた。それは単なる政策論ではない。自分が暮らしている社会の中で、ある日突然「こちら側ではない人間」と見なされるかもしれないという恐怖である。
そして、私はそこで考えた。これはアメリカだけの話だろうか、と。
私たち日本人は、トランプ政権の移民政策を見て「ひどい」と言うことはできる。しかし日本に住む外国人たちはどうだろう。彼らの中にも、自分は歓迎されていないのではないか、何かあれば真っ先に疑われるのではないか、そんな不安を抱えながら暮らしている人がいるのではないだろうか。
私は移民政策の専門家ではない。移民受け入れの是非をここで論じるつもりもない。ただ、一つだけ分かることがある。
それは「部外者」であることの恐怖だ。
私はこれまでドキュメンタリー制作のため、アマゾンやパプアニューギニアの奥地を訪れ、村に泊まり込みながら取材をしたことがある。
現地の人々は普段とても親切だった。一緒に食事をし、話をし、ときには家族のように接してくれた。ところが、ある時、村人同士の争いごとが起きた。
普段は平穏な村である。しかし、ひとたび争いが始まると空気は一変する。激しい怒号が飛び交い、それまで見たことのない表情や行動が現れる。その様子を見ながら、私は身震いした。
もし彼らの怒りの矛先が私に向いたらどうなるだろう。
私はその土地の人間ではない。言葉も十分ではない。親族もいない。何かあったときに私を守ってくれる共同体もない。
私はその村にとって、どこまで行っても部外者であり、ストレンジャーであり、移民でしかない。
その感覚を一度でも味わうと、「自分の居場所がなくなること」の恐ろしさが少し分かるようになる。だから私は、今朝の記事を他人事として読むことができなかった。
アメリカで起きていることを批判するのは簡単だ。しかし、本当に大切なのは、その記事を鏡として日本を見ることではないだろうか。自分たちも、今のアメリカやトランプ政権のように、日本に住む外国人たちを見ていないだろうか。彼らを単なる「外国人」や「移民」という言葉でひとくくりにしてはいないだろうか。そしてそんな日本社会は彼らにどのように見えているのか。
大矢さんや津山さんの記事が訴えていたのは、トランプ政権への賛否だけではないように私には思えた。
人は誰でも、どこかで「よそ者」になる可能性がある。その時の不安や恐怖を想像できる社会であるかどうか。
問われているのは、実は私たち自身なのかもしれない。
「ロイターHP」より
https://www.reuters.com/jp/world/us/T4KHH2BMZJM6PG43SGYBBTLSB4-2024-11-08/


