【今日のタブチ】「ネズミがいないのに感染」――ハンタウイルス騒動に感じる強烈な違和感と人類の“楽観バイアス”
大西洋を航行するクルーズ船で、「ハンタウイルス」による集団感染の疑いが浮上している。
WHOによると、発症者は8人、そのうち3人が死亡。スイスでも帰国者1人の感染が確認され、治療中と報じられている。
この数字だけ見ても十分に深刻だ。だが、私が抱いているのは単なる不安ではない。もっと説明のつかない、強い違和感と危機感である。
なぜか。理由は一つだ。
「ネズミが見つかっていない」からだ。
ハンタウイルスは、本来はネズミなどの齧歯類の排泄物や唾液を通じて感染する。これは医学的にはほぼ常識だ。だが今回、船内でその“感染源”となるはずのネズミは確認されていない。
では、この感染はどこから来たのか。この時点で、私の中では一つの仮説しか残らない。
「人から人へ感染したのではないか」
実際、WHOもこの可能性を否定していない。むしろ、夫婦などの濃厚接触者の間で、ヒトからヒトへの感染が起きた可能性を指摘している。
さらに今回疑われているのは「アンデス型」と呼ばれるハンタウイルスで、これは例外的に人から人へ感染することが知られている数少ない型だ。
つまりここで起きていることは、本来は「起こりにくい」はずの感染経路が、現実に起きている可能性である。
それにもかかわらず、専門家や各国の対応はどこか落ち着いている。
「人から人への感染はまれ」
「一般社会へのリスクは低い」
確かにそれは正しい。だが、この言葉が持つ怖さを、私は感じている。
“まれである”という表現は、そのまま“起きない”ことを意味しないからだ。
むしろ問題はそこだ。
今回の事案は、まさにその「まれ」が実際に発生しているかもしれない状況である。それなのに、評価はあくまで「例外」として処理される。
この構造に、私は強い危うさを見る。
さらに気になるのは対応だ。
感染が疑われる患者3人はすでに船外へ搬送され、クルーズ船は今後カナリア諸島に向かい、乗客・乗員に検査や処置を行った上で、それぞれの出身国へ帰国させる方針が示されている。
これは一見すると合理的だ。確かに、重症患者を船内に留めることはできない。クルーズ船はICUではない。その意味で、医療搬送は必然である。
問題はその先だ。
「検査して問題がなければ、各国へ分散」——本当にそれでいいのか。
ハンタウイルスの潜伏期間は最大で6週間に及ぶ。つまり“無症状”は“非感染”を意味しない。この状態で人を国際的に移動させるという判断は、果たしてリスク管理として適切なのか。
ここで思い出されるのが、コロナ初期の対応だ。
ダイヤモンド・プリンセス号。
そして武漢。
あのときも、「限定的だ」「広がらない」という判断が繰り返され、結果的に何が起きたかは、もはや説明するまでもない。
もちろん、今回のハンタウイルスはコロナとは異なる。感染力ははるかに低く、人から人への感染も極めて限定的だとされている。
だが、それでも本質的な問題は変わらない。
「分類による安心」が、現実の不確実性を過小評価していないか。
今回のケースは極めて象徴的である。
ネズミは見つかっていない。
感染経路は確定していない。
人から人への感染の可能性がある。
しかも致死率は場合によっては50%近くに達する。
にもかかわらず、対応は「冷静さ」が強調される。
もちろんパニックは不要だ。だが問題はその逆である。
冷静さが、過度な楽観へと変質していないか。
私はそこに、今の人類の姿を見る。それは、リスクに対する考え方の限界だ。
科学は進歩した。感染症の分類も、リスク評価も、かつてとは比較にならないほど精緻になった。だが同時に、「既に分かっている枠組み」でしか危機を見なくなってはいないか。
今回のハンタウイルス騒動は、単なる一事例ではない。むしろ、こう問いかけているように見える。
例外が起きたとき、人類はそれを本当に例外として処理していいのか。
この問いに正解はない。だが少なくとも、「まれだから大丈夫」という一言で片付けていい話ではないはずだ。ネズミがいないのに感染が起きる。その事実を、私たちはもっと重く受け止めるべきではないのか。
これが私の感じている、強烈な違和感の正体である。
「日テレNEWS NNN」より


