【今日のタブチ】中東情勢が“急転”──アメリカ×イスラエル×イラン、戦火の中で忘れてはならない“たった一つの”視点
アメリカとイスラエルがイランを攻撃したというニュースが飛び込んできた。
イスラエルはアメリカと連携してイランへの先制攻撃を開始したと発表し、テヘランでは複数回の爆発が確認されたという報道が続いている。一方、米紙は米軍の攻撃も進行中だと伝えており、情勢は瞬く間に緊迫の度を増している。イラン側も報復攻撃に動いているという噂が飛び交い、この地域における緊張は一気に臨界点に近づきつつある。
看過できない事態である。中東で大規模な戦争が再び勃発する可能性は高い。そうなると、我が国への影響も避けられない。いや、もうすでに戦争は始まっていると言ってもいい。
私は「戦争になど、正当な言い分はない」と考えている。どの国も自分たちの立場や正義を主張し、もっともらしい理由を並べる。しかし、歴史を振り返れば、戦争はいつでも“後づけの正当化”に満ちている。いくらでも理屈をつけることができるし、“国家の論理”はいくらでも暴走する。だから、この紛争についても、どちらが正しいか、どちらが悪いかといった単純化された議論はここではおこなわない。
私にとって大事なのは、あの国で暮らしている人々、庶民のことだ。
私は1994年、ドキュメンタリー制作のためにイランを訪れている。
当時のイランはイラン・イラク戦争後の復興期で、現実路線への転換を掲げて経済再建を進めていた。しかし、その一方で物価上昇と不況による社会不安が広がり、各地で散発的な暴動が起きていた。欧米との緊張も続いていて、海外での反体制派暗殺事件をめぐって関係が悪化。私が滞在していた首都テヘランのホテルのロビーには、「アメリカは敵だ」「打倒!アメリカ」と書かれた垂れ幕が掲げられていた。
外に出れば、誰かに監視されているような視線を感じ、ホテルの内線電話からは盗聴器特有の無線音が聞こえてくる。部屋に戻れば、荷物の位置が微妙に変わっている。明らかに何者かがチェックしているのだ。街全体に張りつめた緊張が漂っていた。
だが、街に出ると、そこには庶民の生活が淡々と流れていた。市場には笑顔で会話を交わす人々がいる。路地では子どもたちが走り回り、どこからともなく食事の支度をするいい匂いが漂ってくる。それに食器の音が交差し、まるで「日々のシンフォニー」がそこかしこで奏でられているようだった。
あのとき感じた空気と光景と音を、今でも鮮明に思い出す。
そして思う。紛争地にも、ふつうの人々の生活がある。
本来は、その当たり前の日常こそが絶対的に守られなければならないのだ。国家のトップたちは、地政学、宗教、安全保障、権力闘争…さまざまな思惑を抱えているのだろう。しかし、国家の論理とはまったく別の次元に、市井の人たちの人生が存在する。
私はそこに、政治も軍事も及んではならない“聖域”があると考える。
あの国で、今日も誰かが店を開け、パンを焼き、子どもを送り出し、夕飯の支度をしている。その生活のひとつひとつが、爆撃や報復といった暴力によって奪われていいはずがない。
国家がそのことを忘れなければ、進むべき道は自ずと見えるのではないか。
私たちは、遠い国の出来事を“対岸の火事”のように扱うのではなく、その生活のリアルに思いを馳せる必要がある。
国家の論理とは別に、庶民の生活がある。
その当たり前のことを、私たちはどれほど考えられているだろうか。
「テレ朝NEWS」より


