【今日のタブチ】「子どもの日」に考える――小説『熟柿』と「インクルーシブ保育」が照らし出す、大人の都合の“本性”
今日は子どもの日。新聞で「インクルーシブ保育」という言葉を知った。
子どもの障害の有無にかかわらず、対等に保育することを意味する。すべての子どもが同じ環境で育つことで、共にいる“当たり前の”環境に慣れ親しむ目的がある。
そう聞くと、そんなことは「当たり前」のように思えるが、私たち大人はそれを「当たり前」だと思ってこなかったことに、改めて気づかされた。
障害がある子とそうでない子を区別していたのは、ほかでもない大人だったのだ。「分離保育」のようなかたちで別々に保育するのは、大人の都合だ。その方が対応しやすいからだ。
子どもたちは、幼い頃はまだ「分け隔て」の感覚を強く持っているわけではない。障害がない子は、障害がある子と過ごすことで、人間の多様性を体感として知る。障害がある子にとっても、さまざまな子どもと同じ場で過ごすことには、情緒や社会性の面で多くの意味があるはずだ。
子どもの都合、大人の都合……そんなことを考えたとき、ある小説を思い出した。
佐藤正午氏の『熟柿』だ。2026年度の本屋大賞2位を獲得したことでも話題を呼んだ作品である。自動車事故でひき逃げの罪に問われた女性が、自責の念に苛まれながらも、それでも生き続ける姿を描いた小説だ。
綿密に選別された一つひとつの言葉の清冽さに驚かされる。佐藤氏の作品には『鳩の撃退法』などがあり、同じようなどんでん返しや伏線をどこかで期待して読み始めたようなところがあったが、そんな浅い読みは一瞬で吹き飛ばされてしまうような小説だった。
佐藤氏の作品は、複雑に組まれた構造ゆえに“一気読み”が求められる。間が空くと集中が途切れ、仕掛けられた細部を見失う。しかし今回は違う意味で頁をめくる手が止まらなかった。主人公の心境が強烈に迫り、閉じることができなかった。
読みながら、私の頭のなかはある思いでいっぱいになっていった。
犯罪者となった親は、子どもと会えないのか。
“会う”という自由はないのか。
そんなふうに主人公の視線に立ち、自らに問いを投げかけていた。
だが物語のラストに進むにつれ、それではこの小説の核心に届いていないことに気づいた。(※以下ネタバレを含む)
物語の終盤で、彼女の息子は問いかける。
「なぜ父と離婚したんですか」
窮する彼女に「なぜ幼稚園まで会いに来たのか」と重ね、「一度捨てた子供なのに」と言う。そして、もしそのとき会えていたなら「未来が変わっていた」と語る。
どんな理由があろうとも、離婚は親の側の選択だ。親の事情による、一方的な決断だ。たとえそれが「犯罪者になったから」という重大な理由であったとしても、子どもにとって何が一番重要なのかという問いは残る。
この小説は、その一点を静かに突きつけていた。
大人の都合、親の都合。
その前に、子どもの側に立って考えることができているのか。
インクルーシブ保育という言葉をきっかけに、そんなことを考えた。
「子どもの日」に、子どものことを軸に考えられる大人でありたいと思った。
「Amazon」HPより


