【今日のタブチ】佐々木ランディ著『水中遺跡はそこにある』が暗示する「わからなさ」――世界の海に潜りピラミッドを探した、あの記憶がよみがえる
佐々木ランディ氏の『水中遺跡はそこにある』を一気に読んだ。
私は30代のころ、ダイビングにはまっていた。当時は「なんでいままでこんな素晴らしい世界を知らなかったのか」と思うほど、水中の世界に魅了されていた。人生を少し損していたとさえ感じるくらいだった。そのときの熱量が、この本を読んで一気に蘇ってきた。
まず感じたのは、佐々木氏の熱量の凄さだ。水中の世界が好きで、なかでも水中にある遺物がとにかく好き――その思いが行間からビシビシと伝わってくる。その熱に触れるだけでも、この本を手に取る価値は十分にある。
こんなにも日本に水中遺跡があるとは思わなかった。また、沈没船などの海難事故の遺物も“水中遺跡”と呼ぶのは意外だった。それらのように発見が数多くあった書だった。
こうした身近な発見が、新しい気づきになっていく。その感覚は、普段私が学生に伝えているものと、どこか重なっている気がした。
思えば私自身も、いくつもの水中遺跡に潜ってきた。与那国島の海底地形はもちろん、『七つの海を越えたピラミッド』というドキュメンタリーで私自身が世界各地の海に潜り、水中にピラミッドを探したこともある。
だが本書には「与那国」のよの字も出てこない。これを水中遺跡として認めていないからなのか――そんな違和感と寂しさが残った。
与那国の海底構造は、いまも議論の対象であり続けている。しかし実際に何度も潜り、目の当たりにしてきた私には、これが自然にできたものとはどうしても思えなかった。直角に切り立った岩、意図的に切り取られたかのような四角い空間。それらは、まるで建物の壁や窓、入り口そのものに見えた。
重要なのは、こうしたものがいまだ解明されていないという事実だ。海の中には、説明しきれないものが確かに存在している。
そして私は、それはむしろ「いいことではないか」と思っている。
すべてを理屈で説明し、論理で整理し尽くすことが、必ずしも人間にとって幸福とは限らない。よくわからないけど、なんかいいよね――そういう余白がなければ、人間は息が詰まってしまう。
水中遺跡には、そういう“余裕”がある。本書にも、まさにそんな“余白”がある。
佐々木氏は、日本の水中遺跡の調査や保護体制が、他国に比べて大きく遅れている現状にも触れている。長崎県松浦市の鷹島海底遺跡で水中考古学調査を実施した茂在寅男氏の名前を見て、私は思わず手が止まった。
縄文人が南米まで海を渡ったという仮説を追ったドキュメンタリー『ネシアの旅人』は、まさにこの茂在氏の自説が出発点になっていたからだ。こうして点と点がつながる瞬間に、私はいつも不思議な縁のようなものを感じる。
遺跡とは何か。それは単なる学術対象ではない。その土地に生きる人々の誇りであり、アイデンティティでもあるはずだ。
だからこそ、遺跡は専門家だけのものではない。守るべき主体は、その場所に関わる人々であり、もっと言えば一般の私たちなのだ。
日本の海にも、まだ名もなき水中遺跡が数多く眠っている。その多くは解明されることもなく、知られることもなく消えていくのかもしれない。だが、それでもいいのではないかと思う自分もいる。
すべてを掘り起こさなくてもいい。すべてに答えを与えなくてもいい。
海の底に、名前のないまま残り続けるものがある。そのこと自体が、この世界の豊かさなのだと、私はそう思う。
「エコトピア」HPより



