【今日のタブチ】本学・桜美林大学「死の受容」研究会で考えた――映画『あなたのおみとり』で“死”を見つめて残ったのは“夫婦”だった
昨日16日㈯は、オンラインで本学・桜美林大学リベラルアーツ学群の長谷川(間瀬)恵美准教授が代表を務める「死の受容」研究会の第21回定例研究会に参加した。
長谷川氏はかくれキリシタン研究家でもあり、以前一緒に、長崎県の外海地区にフィールドワーク研究をしたこともある。
「死の受容」研究会は、科学研究費助成事業(科研費)などの一環として、医療者、宗教者、研究者が集まり、終末期ケアや諸宗教の死生観について定期的な研究や意見交換を行っている。終末期の患者を看取る現場において、宗教者やケア従事者がどのように「死の語り」に寄り添い、悲嘆(グリーフ)に向き合っているかを理論的・実証的に探求するなど、“死”を社会学的かつ宗教学的な側面など多方面から見つめ直している。
昨日は、映画監督である村上浩康氏の映画『あなたのおみとり』を視聴して、村上氏本人を含め質疑応答や意見交換を行った。
とても興味深い映画だった。
この作品は、単なる家族の介護や見取りの記録ではない。
むしろ、夫婦とはどうあるべきかという根本的な問いであり、人が死ぬときに社会や周囲の人々とどのように関わりあってゆくのか、あるいは関わってゆけるのかという社会学的な問題を孕んでいる。
ドキュメンタリー制作が長かったせいか、どうしても同じクリエイターとして見てしまい、研究会の趣旨とは少し異なる部分に目が行ってしまうのだが、私なりの感想を述べておきたい。
まず、「死とは何か」を考えさせられる前に、「夫婦とは何か」を考えた。映画は、監督自身の父親の見取りの瞬間を捉えているが、自宅終末医療をする父を看病する母の様子を詳細に描き出している。「喧嘩ばかりする、仲の悪い夫婦」とのことだが、私にはそうは見えなかった。意識がもうろうとしてゆく元教師の夫に『一年生になったら』を歌って聞かせるシーンなど、涙なくしては見られない。
父の臨終の瞬間は、よくぞ撮ったと言いたい。このシーンを観るだけでも、この作品には十分な価値がある。
まるでドラマのワンシーンのような、“美しく”も“はかない”死の間際。それは忌むべきものでも、嫌うべきものでもない。
“尊厳”――そんな言葉が頭に浮かんだ。
同時に、監督の視点の鋭さに驚かされた。
挿入される虫や自然の風景が効果的だ。「人間⇔自然」という対比をおこなうことで、人間の生の“無常さ”や物ごとの“普遍性”を見事に表現していると感じた。このあたりは、村上監督の『東京干潟』などの作品に通じるところがあり、そういった作品で腕が一段と磨き上げられたのだと想像した。
また、終末医療や見取りといった自宅介護を取り巻く人々の描き方が秀逸だった。サービスカーの人には「何軒ぐらい回るんですか?」と問いかけるなど、単に当事者としての視点だけでなく、広い視野で事象を捉えている。「ヘルパーさんも大変だ」などの実感には、周囲の“支える人々”への優しく温かな目線が伺え、印象的だった。
この表現の効果は、「こういう社会にすることが大事なのだ」と視聴者に素直に感じさせる点にある。
自分の両親の様子を撮影したセルフドキュメンタリーでは、信友直子監督の『ぼけますから、よろしくお願いします。』が有名だが、こちらはどちらかというと“寄り添う”感じの作風で、作り手である信友氏自身も“共感する”立場にあった。
それに対して、本作は少し“ヒキ”で“見守る”姿勢が感じられた。映像もヒキの絵を多用し、映像人類学的に言えば“参与観察”のようでもある。それが本作の魅力の一つとなっているが、この違いは、女性監督と男性監督という性別の差にも起因しているのかもしれない。
私もこういう死を迎えたい。
そう思わせられる、“うらやましく”も“微笑ましく”も思える臨終。それは悲しい死ではない。
まさしく今回、代表の長谷川氏が狙った「死の受容」研究会の本懐そのものだったのではないだろうか。
「映画.com」より


