【今日のタブチ】“萎縮”はどこから生まれるのか――「国旗損壊罪」と「教育の中立違反」があぶり出す、“声をあげるという当たり前”
「高市人気があるうちに進めてしまえ」。そんな空気が政策の加速装置として働いていないか。最近の動きを見ていると、そうした違和感が拭えない。
自民党の検討チームが議論しているとされる「国旗損壊罪」をめぐる法案骨子では、侮辱の明確な意図がなくとも処罰対象に含め得る枠組みや、SNS上の投稿まで射程に収めるような発想が取り沙汰されている。仮にそれが制度化されるなら、憲法が保障する「思想・良心の自由」や「表現の自由」との関係はどう整理されるのか。行為の外形だけでなく内心の評価が絡み、さらにオンライン表現にまで広がるとなれば、線引きは一段と曖昧になる。
この問題意識のきっかけになったのは、東京新聞が関連するニュースを同じ一面に並べて報じていたことだった。紙面の配置そのものが、「これは別々の話ではない」と語りかけてくる。
もうひとつのニュースは、沖縄・辺野古で抗議船が関わった事故をめぐる教育現場への是正指導である。文科省が、高校が生徒を抗議船に乗せたことを「特定の見方に偏った教育」と評価し、教育基本法の政治的中立性に反すると判断したという。個別の教育内容に対して国が踏み込んで評価を下す。そのこと自体に、私は強い違和感を覚える。現場がどのような意図で学びの機会を設けたのか、その文脈を十分に汲み取らないまま、「是正」の名で方向づけることは、教育の自律性を損ないかねない。
ここで気になるのは、二つの話題に通底する「萎縮」という作用だ。
規制や是正の仕組みは、条文に書かれた範囲を超えて、現場の判断そのものを内側から変質させる。罰則の境界が曖昧であればあるほど、人は安全側に寄る。教育現場であれば、議論の種になる素材を最初から避ける。メディアや表現の場であれば、波紋を呼びそうな言い回しや企画を未然に抑える。制度が意図した以上の静けさが、現場に広がっていく。
かつてNHKの報道に総務省が関与したとされる一件でも、現場には見えない圧が残り、自己規制の空気が漂ったと指摘された。フジテレビの問題でも、トップの顔色をうかがう企業文化が、結果として判断の歪みを生んだと総括されている。いずれも「外からの明確な禁止」だけでなく、「内側での忖度」が決定を変えていく典型例だ。
民主主義社会において重要なのは、違和感を違和感のままに言語化できる余地だ。法や行政のメッセージが強くなりすぎると、その余地が狭まる。とりわけ教育と表現は、社会の多様な価値観がせめぎ合う場所であり、本来ならば試行錯誤や揺らぎが許容されるべき領域だ。そこに単線的な正解を持ち込めば、短期的には整然とするかもしれないが、長期的には思考の幅を削いでいく。
「どうせ決まってしまうんじゃないの」という諦めは、萎縮の最終形だ。制度の是非を論じることと同じくらい、その制度が現場にどのような心理的影響を与えるのかを注視する必要がある。おかしいと思うことに声をあげる。その当たり前の行為が維持できるかどうか。いま問われているのは、条文の細部以上に、社会が自らの自由をどう扱うかという態度そのものだ。
「日テレNEWS NNN」より


