【今日のタブチ】人はなぜ“拡大解釈”してしまうのか――『もう、パパ!』と憲法論争に見た共通点
11月1日放送のドラマ『もう、パパ!』第5話「パパなんて、大っ嫌い」を見ながら、私はある問いを思い出していた。
「本当にそれは相手のためなのか」という問いである。
私がこのドラマに引き込まれる理由の一つは、登場人物たちがみな相手の気持ちを勝手に解釈しているからだ。
父親の良詫は、「娘は本当はこう思っている」と考える。だから娘のためだと言って行動する。しかし、その解釈は次第に現実から離れていく。
娘の紀子もまた、「こうしたらパパは喜ぶだろう」「こうすれば傷つかないだろう」と考える。しかし、それも本当に父親が望んでいることなのかは分からない。
親子なのに会話していない。
正確に言えば、互いに目の前の相手ではなく、自分の頭の中にいる相手と会話しているのである。だから悲劇が起きる。
だが、考えてみればこれは親子だけの話ではない。
恋愛もそうだ。職場もそうだ。教育もそうだ。そして政治もそうである。
先日、東京新聞に慶應義塾大学名誉教授の小林節先生のインタビューが掲載されていた。
小林先生が問題にしていたのは、改憲か護憲かという単純な対立ではなかった。むしろ気になったのは、高市首相らが掲げる「自主独立」という言葉の根拠である。その思想の源流として語られる吉田松陰や松下村塾の教えは、本当にそのようなものだったのか。
実は私はこの記事を読んでいて、「解釈」という言葉が頭から離れなかった。人は歴史上の人物さえ、自分の都合の良いように語ってしまう。小林先生は、松下政経塾の評議員として松陰研究者の話を聞き、自らも長年その思想に接してきた立場から、そこに強い違和感を示していた。
本来は本人に聞けば済む話だ。しかし、吉田松陰に聞くことはできない。だからこそ、人はそこに自分の願望や理想を投影してしまう。
そして私はこの記事を読みながら、ドラマの『もう、パパ!』の父親も同じなのではないかと思っていた。
もちろん憲法と親子関係は別物である。しかし、共通しているものがある。
それは、「自分は正しいと思っている」ということである。
父や娘を愛している。だから自分の行動は正しいと思う。政治家も国を良くしたいと思っている。だから自分の解釈は正しいと思う。
だが、問題はそこではない。
本当に相手のためなのか。本当に国民のためなのか。それとも、自分が信じる理想を相手に重ねているだけなのか。
人は善意であればあるほど、その問いを忘れてしまう。
私は大学生の頃、小林節先生の憲法の授業を受けたことがある。
正直に言う。怖かった。教室には独特の緊張感があった。だが、授業は抜群に面白かった。なぜ面白かったのか。先生が護憲派だったからでも改憲派だったからでもない。徹底して論理を求めたからである。
「なぜそう考えるのか」「根拠は何か」「条文のどこにそう書いてあるのか」その問いを容赦なく突きつけてきた。だから怖かった。
しかし、同時に分かりやすかった。
そして今になって思う。あの授業の本質は憲法ではなかったのかもしれない。
自分が正しいと思うな。まず根拠を示せ。相手の立場から考えろ。権力を持つ側こそ、自らを疑え。
今振り返ると、小林先生が教えていたのは憲法だけではなかったように思う。
親子も同じである。教育も同じである。政治も同じである。そして私たちの日常も同じである。
人は放っておくと拡大解釈をする。
相手はこう考えているはずだ。きっとこう思っているに違いない。だが、その瞬間から私たちは相手本人ではなく、自分が作り上げた幻想と会話を始めてしまう。
父は娘を解釈する。政治家は憲法を解釈する。ときに歴史上の人物まで解釈する。
しかし、その解釈は本当に相手の言葉なのだろうか。それとも、自分が信じたい物語を相手に語らせているだけなのだろうか。小林先生のコメントを読みながら、私はそんなことを考えた。
『もう、パパ!』とは結局、自分の頭の中にいる娘ではなく、目の前にいる娘の声を聞けという物語なのかもしれない。
今日のVoicyは、またまたドラマ『もう、パパ!』から憲法、護憲論について思いを馳せてみました!
#099 ドラマ『もう、パパ!』と憲法論争に見た「解釈の怖さ」
https://voicy.jp/channel/1027821/8395287
「東京新聞デジタル」より


