【今日のタブチ】「戦争はもう始まっている」――私が会ったダライ・ラマと言葉の戦場

東京新聞に掲載された歴史学者・藤原辰史氏の文章を読んで、強く心に残った言葉がある。
「戦争がまた始まるのではないか」ではなく、「残念ながら戦争はもう始まっている」という一節だ。
藤原氏はジョージ・オーウェルの『一九八四年』に登場する「ニュースピーク」に触れていた。ニュースピークとは、単なる流行語ではない。言葉の種類を減らし、人々が考えることそのものを制限するために作られた言語だ。
自由について語る言葉を奪えば、人は自由について考えなくなる。平和について語る言葉を奪えば、人は平和への想像力を失う。オーウェルが描いたのは、そういう社会だった。
藤原氏が警鐘を鳴らしているのは、現代日本にも似た現象が見られることだ。その象徴として挙げられていたのが「お花畑」という言葉である。
安保法制を巡る議論の際、戦争への不安や平和への願いを口にすると、「お花畑だ」と嘲笑された。本来であれば議論が行われるべきところで、レッテルだけが貼られる。言葉による反論ではなく、言葉による排除だ。
「お花畑」はまさにニュースピークである。意味は薄いのに威力だけは強い。その言葉を投げつけられた人は沈黙し、周囲も発言をためらうようになる。そして、議論そのものが成立しなくなる。
そんなことを考えていた時に、もう一つの記事を読んだ。

中国で民主活動家の張毅氏が、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世の写真を携帯電話で見せたことを理由に、「国家分裂扇動容疑」で逮捕されたという記事である。
写真を見せただけで国家分裂扇動。言葉を失う。
だが、これもまたニュースピークの典型例ではないか。
中国政府は長年、ダライ・ラマ14世「分裂主義者」と呼んできた。しかし、その言葉は現実を正確に表しているのだろうか。
私は1992年、インド北部ダラムサラにあるダライ・ラマ法王の住居でインタビューする機会を得た。当時の法王は若々しく、終始にこやかな表情を崩さなかった。
インタビュー前の儀式を撮影していた際には、カメラに気付き、「どこのテレビ局?」と話しかけてきた。そして私の頭を軽くなでてくれた。世界的な宗教指導者でありながら、そんな気さくさとお茶目さを持ち合わせた人物だった。
私がその時に感じたのは、人間としての大きな魅力である。
もちろん、一度会った印象だけで政治的評価のすべてを語ることはできない。しかし少なくとも、私には「分裂主義者」という一語で片付けられる人物には思えなかった。

複雑な現実を単純なレッテルに押し込める。そして、そのレッテルに異論を唱えることを許さない。それこそがニュースピークの恐ろしさだ。
私たちはしばしば言論統制というと、逮捕や検閲を想像する。しかし本当に恐ろしいのは、その前段階かもしれない。ある言葉を使うことが当たり前になり、その言葉でしか物事を見なくなることだ。
「お花畑」
「分裂主義者」
そうした言葉が独り歩きすると、人は考えることをやめる。考える代わりに分類し、決めつける。そして対話は失われる。
藤原氏は、兵器は対話が失われた場所で用いられると書いていた。まさにその通りだと思う。
戦争は、銃声が鳴ってから始まるのではない。対話が失われたときから始まる。だからこそ、私たちは言葉を守らなければならない。
レッテルではなく言葉を。罵倒ではなく議論を。沈黙ではなく対話を。
「戦争がまた始まるのではないか」ではない。
残念ながら、その兆候はすでに私たちの周囲に現れているのである。

「静岡新聞デジタル」より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です