【今日のタブチ】「知らされない評価」の正体――無期囚を縛る“マル特”の不気味さ

最近、「マル特」という言葉をめぐる報道や証言に触れる機会が増えている。検察が、重大犯罪の受刑者、とりわけ無期懲役刑の受刑者に対して内部的に付与する一種の区分だとされる。再犯可能性や社会的危険性を念頭に置いた評価であり、仮釈放の審査や出所後の扱いにも影響すると指摘されている。

こう説明してしまえば、おそらく多くの人は「必要な制度ではないか」と感じるはずだ。重大犯罪を犯した者が社会に戻るとき、再犯のリスクを慎重に見極めることは当然だろうし、検察や司法機関がそれを考慮するのも理解できる。犯罪に対する償いは不可欠であり、被害者側の視点を忘れてはならない。

しかし、私が強く違和感を覚えるのは、この制度の“運用方法”である。

この「マル特」という区分は、少なくとも広く国民に知られてきたものではなかった。そして、当事者である受刑者本人にすら、その扱いが明確に説明されていない可能性がある。つまり、自分がどう評価されているのかを知らされないまま、その評価だけが静かに作用し続ける構造である。

これは単なる制度上の細部の問題ではない。私はここに、日本社会に繰り返し現れてきたある種の“発想の型”を見る。

大学時代、私は法学部で刑法のゼミに所属していた。恩師は宮澤浩一先生である。犯罪学、刑事政策の分野で長く研究を続けられた方であり、とりわけ印象に残っているのが「ラベリング」という考え方だった。犯罪学では、逸脱行動はその人の本質ではなく、社会が与えるレッテルによって形成されていくという議論がある。宮澤先生は、その重要性と危うさを繰り返し語っていた。

人は一度「そういう人間だ」と見なされると、その期待や視線に引き寄せられる形で振る舞いを変えてしまうことがある。つまり、レッテルは単なる評価ではなく、人間の行動や未来を規定する力を持つ
当時の私は、それを一つの理論として受け止めていた。しかし今、「マル特」という制度の存在に触れるとき、あれは決して抽象的な話ではなかったのではないか、と感じる。

ここで問うべきは、「マル特」が正しいか間違っているか、という単純な二項対立ではない

むしろ問題は、それが「ラベリング」として機能している可能性である。しかも、それは本人に知らされない形で行われている。これは極めて特異だ。通常、評価には少なくとも説明や異議申し立ての余地がある。しかし、見えない評価は、そのどちらも封じてしまう。

では、もしこの「マル特」という区分が本人に明確に伝えられたら、何が起こるのか。

一つの可能性は、更生に向かう力がむしろ強まるという見方である。自分がどのように見られているのか、なぜそう評価されているのかを知ることで、改善の方向を具体的に考えることができる。評価が不透明であることこそが、無力感や諦めを生んでいるとすれば、可視化は前向きに働くかもしれない。

一方で逆の可能性もある。「どうせ危険人物と見なされている」という意識が固定化されれば、更生への意欲は削がれ、「何をしても変わらない」という心理が生まれる恐れもある。ラベリング理論が警告してきたのは、まさにこの点だったはずだ

さらに、刑務所内の秩序や運用の観点から見れば、全てを明らかにすることが現場に新たな緊張や摩擦を生む可能性も否定できない。制度には“見せないことで保たれている均衡”もある。

つまり、「知らせるべきか、知らせないべきか」という問題は簡単には決着しない。

しかし、ここで議論を止めてしまうと、本質は見えなくなる。
私は、「マル特」が存在することそれ自体以上に、「知らされない評価」が制度として機能している点に、より大きな違和感を抱いている。無期懲役という刑は、きわめて長い時間の中で、わずかな可能性としての仮釈放が存在する。その「未来」に対して、本人の知らない評価が影響するのであれば、それは更生の意味そのものを曖昧にしてしまう。

どれだけ時間をかけ、どれだけ行動を改めても、見えないところで結論が決まっているかもしれない。その感覚の中で、人は何を支えに変わろうとするのか。
さらに言えば、この制度は社会の側にも問いを突きつけている。出所者を社会全体で支えるという考え方と、リスク管理のためにラベルを付与するという発想は、本当に両立するのか。あるいは、目に見えないラベルが、結果的に受け入れのハードルを高めてはいないのか。

戦後日本は、「公安」という言葉に象徴されるように、目に見えない形で人を評価し、管理する仕組みを持ってきた。思想や危険性を先取りして判断する発想である。「マル特」はそれと全く同一のものではないだろう。しかし、将来の行動を予測し、先回りしてラベルを貼るという構造には、どこか通底するものを感じる。

これは偶然なのか。それとも、日本の治安システムが長い時間の中で培ってきた“思考の癖”なのか。

近年になって、この制度の存在が広く知られるようになってきたのは、おそらく制度が変わったからではなく、「見えるようになった」からだろう。情報が開かれ、当事者の声が外に届くようになった結果、これまで水面下にあったものが浮かび上がってきたに過ぎない。
だとすれば、私たちは今、単に一つの制度を知ったのではなく、自分たちの社会がどのように人を評価し、どのように管理しているのか、その一端を突きつけられているのかもしれない。
必要な制度か否か、という問いは重要だ。しかしそれ以上に、「知らされないまま人が評価され続ける」という構造を、私たちはどこまで許容するのか。

私はそこに、この社会の根深い問題を見ている。

無期刑受刑者が服役する刑務所から届いた手紙
「東京新聞デジタル」より

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