【今日のタブチ】15キロしか離れていないドラマ撮影現場で知った「やまゆり園事件」から10年――「共存すること」だけが“目的”になっていないか

昨日7月26日は、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者45人が殺傷された事件から10年という節目の日だった。

2016年7月26日、私はちょうど相模原市内のJAXA相模原キャンパスで、テレビ東京ドラマ『巨悪は眠らせない 特捜検事の逆襲』の撮影をしていた。JAXA相模原キャンパスは相模原市中央区由野台にあり、津久井やまゆり園とはおよそ15キロほどしか離れていない。
撮影中、パトカーや救急車のサイレンが何度も聞こえた。上空には報道ヘリと思われる機体が飛び交っていた。
「何か大きな事故でもあったのだろうか」
その程度にしか思っていなかった。まさか、そのわずか十数キロ先で、後に日本社会を震撼させる惨事が起きていたとは想像もしなかった。

あれから10年。この事件を思い出すたびに、私は「共生」「共存」という言葉について考える。
障害の有無にかかわらず、人は共に生きなければならない。人間は一人では生きていけない生きものだからだ。誰しも、他者と助け合って生きている。
だから、価値観が違うからといって排除してよいはずがない。
その考えは揺るがない。
しかし、今回、10年という節目を迎えて考えたのは、少し別のことだった。

果たして「共存」は無条件に善なのだろうか。

私たちはしばしば、共存という言葉を良い意味で使う。もちろん、その考え方自体は間違っていない。だが、共存した結果、必ず双方が幸せになるとは限らないのも事実だ。
最近成立した副首都構想関連法に私が違和感を覚えるのも、実はそこに理由がある。法案そのものの是非というより、自民党と日本維新の会の距離が急速に近づいているように映るからだ。
両者が近づくこと自体を否定するつもりはない。政党同士が政策ごとに協力することは当然あり得る。しかし、共存すること自体が目的になってしまえば話は別だ。共存の先に何が実現されるのか。国民生活にどんな利益がもたらされるのか。その説明がされないまま、「一緒になれること」だけを目指すのであれば、「大阪ありき」「維新ありき」の政治にも見えてしまう。
そして、これは政治だけの話ではない。
夫婦もそうだ。同じ家で暮らし続けていることと、幸せな結婚生活を送っていることは必ずしも同じではない。
職場もそうだ。衝突を避けて表面的な共存を続けた結果、改革も挑戦も生まれない組織は珍しくない。
マンションの管理組合もそうだ。波風を立てないことを優先し、必要な決断を先送りした結果、建物の老朽化が進むこともある。
SNSもそうだろう。異なる意見が共存することは大切だが、ただ同じ空間に存在しているだけでは対話にはならない。
だから、私は最近の政治を見ていても同じことを感じるのだ。政党間の協力や連携そのものを否定するつもりはない。しかし、本来問われるべきなのは、何のために共存するのかであり、その共存によって国民にどんな利益をもたらすのかということだからである。

共存は目的ではない。手段だ。
共存した先に何があるのか。社会はより良くなるのか。人々はより幸せになるのか。共に繁栄できるのか。
そこが見えないまま、「共存できた」という事実だけを評価するのは危うい。

やまゆり園事件から10年。あの事件が私たちに突き付けた問いは、「共存するか否か」ではなかったように思う。
そうではなく、「どのように共存するのか」という問いだったのではないか。
もちろん、犯人が犯した罪は重い。法によって厳しく裁かれるべきことは言うまでもない。ただ、あの事件を単に「理解不能な悪人による犯行」と片付けてしまえば、私たちは何も学べない。なぜあのような思想が生まれたのか、社会はどう向き合うべきなのか。その問い続ける姿勢こそが、共生社会には必要なのだと思う。

私はそんなことを考えながら、この国の政治と社会を見つめている。

「TBS NEWS DIG」より

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