【今日のタブチ】教育とは何かを問う前に、私たちは何をしているのか――山崎エマ著『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』が突きつける問い
山崎エマ氏の著書『それでも息子を日本の小学校に通わせたい』を読んだ。以前に山崎氏と会食した際に「そろそろ出版する」と聞いていたので、楽しみにしていた一冊だ。
その期待通りの力作だった。
本書は、映画『小学校~それは小さな社会~』の制作に至るまでの経緯や葛藤を軸に据えながら、山崎氏自身の幼少期、家族、そしてキャリアが丁寧に掘り起こされていく構成になっている。読後にまず感じるのは、これは単なる教育論ではなく、「一人の人間がどのように形づくられてきたか」を記録した書だということだ。
イギリス人の父と日本人の母のもとに生まれ、大阪の公立小学校から神戸のインターナショナルスクールへ、さらにニューヨーク大学へと進む。この多層的な経験が、彼女のバランス感覚を支えているのは間違いない。そして、両親が教員であったという点も含めて、その生育環境そのものが、この作品を生み出した土壌になっている。
私の両親も教員だった。その影響の大きさはよくわかる。
だからこそ本書の中に散りばめられている言葉は、単なる思いつきではなく、「身体化された教育観」として読み取ることができる。
例えば、
・近年は子どもの意思を尊重する気運が強いが、それだけでは十分ではない。バランスが必要。
・正解は一つではない。
・社会は、生まれ持った資質だけで構成されるものではなく、教育によって形成された人間の振る舞いの総体である。
こうした指摘はいずれも、教育者としての私にとっても強く共鳴するものだった。
同時に、ドキュメンタリー制作者としての自分のスタンスと重なる部分が多いことにも驚かされた。
山崎氏は、映画を「誰の視点で語るのか」を徹底的に意識している。これは、劇映画における監督の立場に近い。客観を装いながら、実際にはある特定の視点に寄り添い、そこから世界を切り取る。
私自身も常にそこを意識してきた。ドキュメンタリーは「事実の記録」である前に、「誰かの物語」でなければならない。その意味で、本書と私の過去の映像制作の仕事との通底を感じたのは自然なことだったのかもしれない。
本書の中で最も印象に残ったのは、次の問いである。
制度的にも経済的にもこれだけ整っているにもかかわらず、なぜ日本は「子育てがしづらい国」と見られているのか。
山崎氏はその理由の一つとして、「こうあるべき」という固定観念の強さ、そして幼い子どもに対する要求水準の高さを挙げている。
この指摘は鋭い。
「母親は常に子どもと一緒にいるべきだ」という無言の圧力に始まり、日本社会には、本人すら気づかないまま内面化された規範が数多く存在している。そしてそれは、大人同士の関係だけではなく、子どもたちにも早い段階から向けられる。
「こうしなさい」という指示の積み重ねは、やがて「こうでなければならない」という自己規定へと変わる。その過程で、子どもは自分で選ぶ感覚を少しずつ手放していく。
本書を読んで改めて感じるのは、教育とは方法論の問題ではないということだ。
その子どもがどのように形づくられてきたのか、そのバックボーンとなる「物語」を読み解くことなしに、教育は成立しない。
そう考えたとき、私たちはいったい、子どもたちに何を「教えているつもり」になっているのか。


