【今日のタブチ】サル山侵入騒動が示すもの――これは大宅壮一の言う「白痴化」の再来なのか、それとも……

市川市動植物園のニホンザル「パンチ」は、ぬいぐるみを抱くサルとして知られている。母親に育てられず、その代替として与えられたぬいぐるみに執着する姿がSNSで拡散され、象徴的な存在になった。
要するに、パンチは「ただのサル」ではない。すでに“物語を背負った”存在である。

そのサル山に人間が侵入した。しかも着ぐるみ姿で入り、別の人物が撮影していた。偶発ではない。最初から「撮るための行動」だ。

ここに強い違和感を覚えた。
そこで、今回のこの行動を、もう少し構造的に見てみたい。
これは迷惑行為として処理できる話なのか。むしろ、もっと別の現象が露呈しているのではないか。

私は、「一億総白痴化」という言葉を想起した。「一億総白痴化」は、1957年に社会評論家の大宅壮一氏が提唱し、流行語となった。テレビの普及によって全国民が受動的な情報消費に慣れ、想像力や思考力を低下させてしまうことへの強い危機感と警鐘を意味している。
「白痴化」は、当時のメディア状況を強く批判した言葉であり、現在では表現として議論の余地はあるが、今なお示唆的な概念である。

私は今回のサル山事件を観て、「白痴化の再来」だと感じた。ただし、大宅氏のそれとはずいぶん性質が違うという点が、今回の考察のミソである。

かつての白痴化は受動的だった。テレビに与えられ、考えなくなる。
だが今回は違う。人は自分で動いている。柵を越え、場を壊し、映像を作る。にもかかわらず、その判断は極端に単純だ。「目立つか」「拡散するか」だけである。それはある種“逸脱的”であり、“自分勝手”だ。

つまりこれは、与えられる白痴化ではない。
自ら進んで参加する、いわば「参加型白痴化」だ。

パンチという存在も、この行動を加速させている。ぬいぐるみを抱くサルというイメージは、それだけで物語になる。そして人は今、その物語を「見る」だけでは終わらない。中に入りたがる。
そのことによって、動物は“観察対象”ではなく、“介入される対象”へと変わる。

さらに言えば、柵の意味も変わった。本来は越えてはいけない境界だったものが、いまや「越えた瞬間に価値が生まれる装置」になっている。接近ではない。越境だ。
“逸脱的”と述べたが、倫理が消えたわけではない。優先順位が変わったのだ。現実のルールより、可視化された結果のほうが重要になる。その価値観の歪みが、今回の行動を成立させている。

これは単なる軽率な事件ではない。むしろ現在の環境の中では、そうした行動が選択されやすくなっているという意味で、人間が環境に適応した結果ですらある。
拡散される形式をなぞればよい。逸脱と越境を組み合わせればよい。そうしたテンプレートの中で、人は無意識に選択しているのだ。考えなくても成立する行動を。

つまり、これはやはり白痴化である。
だが、それは、与えられているものではない。自ら越え、可視化に参加する過程そのものが白痴化している。今回のサル山侵入という出来事は、その典型的な例であるにすぎない。

私が危惧するのは、これがエスカレートして、考えることなく無意識に行われるようになることだ。そのとき、人間の行動は“自覚なき”暴徒と化す。今回の事件は、私たちがその入り口に立ったことを示している。

「オリコンニュース」より

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