【今日のタブチ】サグラダ・ファミリア完成へ加速した“たった一つの理由”――AIが変えた建築史と過熱する熱狂への警鐘
「完成!」という見出しが踊るたびに、思わず手を止めてしまう。あのサグラダ・ファミリアがついに、という期待。しかし冷静に中身を読むと、今回の“完成”は主塔の「イエス・キリストの塔」に限った話にすぎない。確かに象徴的な進展ではあるが、全体としてはなお工事は続き、最終的な完成にはあと10年程度かかるという見通しも変わっていない。
ではなぜ、ここにきて急に「完成が見えてきた」という空気が醸成されているのか。そもそもこの建築は、スペイン内戦で設計資料が焼失し、一時は“悲観的状況”とまで言われた。あの段階から考えれば、むしろ今の進捗は奇跡に近い。そこに何が起きたのか。
調べていくと、近年の工事加速を支えているのが最先端のデジタル技術、とりわけAIの活用だという点に行き着く。ガウディが残した断片的な図面、模型、そして思想。それらをもとに、コンピュータ上で立体的に再構築し、設計を補完し、施工に落とし込む。このプロセスが、かつてとは比較にならない速度で回り始めている。
ガウディの建築は、直線ではなく曲線、とりわけ自然界に近い複雑な形状で知られる。20世紀初頭の技術では、それを正確に再現すること自体が困難だった。しかし今は違う。3DモデリングとAIによる最適化によって、複雑な曲面もデータとして扱える。さらにそのデータをもとに、石材の切り出しや組み立てまで精密に制御できる。言い換えれば、ガウディの頭の中にあったイメージを、100年以上の時を経てようやく“再現可能”な状態に引き戻しているのが現代技術というわけだ。
ここで重要なのは、AIが「創造した」のではなく、「橋渡しをした」にすぎないという点だろう。ガウディという圧倒的な創造主体があり、その意図をいかに現実の構造物として成立させるか。その翻訳装置としてAIが機能している。この関係性を見誤ると、「AIが建築を完成させた」という短絡的な理解に落ちてしまう。
最近のテクノロジー報道には、どうもその短絡が多い。エヌビディアやパランティアの業績が好調だというニュースが並び、AI関連企業への資金は膨張を続ける。さらにオープンAIやアンソロピックのIPO観測まで浮上し、「次はどこに投資すべきか」という話題が先行する。しかし、その熱狂はどこか先走っている印象を拭えない。
サグラダ・ファミリアの事例は、むしろ逆のことを示している。AIは単独で価値を生むわけではない。長い時間をかけて積み重ねられた人間の知識、思想、設計思想、その文脈を引き受けてこそ意味を持つ。もしガウディの構想が存在しなければ、いくら高度なAIがあっても、この建築は前に進まなかったはずだ。
先日見たドラマ『銀河の一票』の中で、「AIは私たち人間が使うんです!」というセリフが強く印象に残っている。まさにその通りで、主語は常に人間にあるべきだ。AIに何かを“やらせる”のではなく、自分たちが何を実現したいのか、そのために何をどう使うのか。この順序を取り違えた瞬間に、技術は暴走ではなく“空回り”を始める。
サグラダ・ファミリアの工事が示しているのは、AIの可能性そのものではない。むしろ、人間の時間軸の中にAIをどう位置づけるかという問いだ。100年以上かけて一つの建築を完成させる。そのプロセスの中で、新しい技術を取り込みながら、なお最初の理念を貫く。この姿勢こそが本質ではないか。
市場はスピードを求める。しかし文化や思想は、本来スピードとは相性が悪い。そこにAIという加速装置が入ったとき、人間は何を守り、何を変えるのか。そのバランス感覚が問われている。
サグラダ・ファミリアは、単なる観光名所ではない。未完という状態を引き受けながら進み続ける、極めて現代的なプロジェクトだ。そしてその歩みは、100年という時間を経て、技術と人間の関係をいまの人類に教えている。これほど長い時間軸の中で、ここまで鮮明な示唆を与える存在はそう多くない。その意味で、その加速をどう受け止めるかは、いまの私たちに突きつけられている問題でもある。
AIに使われるのではなく、AIをどう使うのか。自覚と責任、そして自発性。この三つを欠いたまま熱狂に乗ることほど、危ういものはない。
「日テレNEWS NNN」より


