【今日のタブチ】“転売”はなぜなくならないのか――「吉田カバン事件」で見えた人間の欲望

最近、転売に関するニュースをよく目にする。
MLB開幕戦のチケット、ポケモンカード、Nintendo Switch。人気商品が発売されるたびに高額転売が問題になり、SNSには怒りの声があふれる。
またか。多くの人はそう思っただろう。私もその一人だった。
ところが先日、思わず足を止めたニュースがあった。吉田カバンである。
地方出身の苦学生だった私にとって、吉田カバンは少し特別な存在だった。大学時代、店頭で何度も眺めた。だが、簡単に買える値段ではない。当時の私にとっては、少し背伸びをしなければ届かない世界だった。
結局、手に入れたのは就職してからだった。小さなトートバッグだったと思う。決して高級品ではない。しかし、不思議なことに、あの日の高揚感は今でも鮮明に覚えている。
なぜうれしかったのだろう。
どうしても鞄が必要だったわけではない。荷物を運ぶだけなら、もっと安いものはいくらでもあった。いま振り返れば、私は鞄を買ったのではなかった。
社会人として歩き始めた自分を買ったのである。
吉田カバンには、そんな力があった。
もちろん、それは私だけではないだろう。誰にでも似たような経験がある。
初めて買った腕時計。初めて買ったスーツ。憧れていたブランド。ずっとほしかった一冊の本。人は商品そのものを買っているようでいて、実はその向こう側にある物語を買っている。だから転売はなくならない。

転売問題を語るとき、多くの人は売る側を批判する。もちろん、法律違反や詐欺まがいの行為は論外である。だが、転売が成立する理由は転売ヤーだけでは説明できない。
買う人がいるから成立する。もっと言えば、その商品を欲しいと思う人がいるから成立する。
ロレックスもそうだ。ポケモンカードもそうだ。コンサートチケットもそうだ。そして吉田カバンもそうである。
そこに憧れがある。思い出がある。ブランドへの信頼がある。そして手にしたときの高揚感がある。
価格は商品の値段だけで決まるわけではない。人々の心の中にある物語によって決まる。
だから希少性が価値になる。価格差が生まれる。そしてその差額を狙う人間が現れる。

私は転売を否定するつもりも肯定するつもりもない。転売そのものは違法ではないからだ。
しかし、最近、転売ヤーへの激しい批判を見ていて、少しだけ違和感がある。
私たちは本当に転売ヤーとは別の生き物なのだろうか。
株価が上がればうれしい。マンション価格が上がればうれしい。中古品が高く売れればうれしい。安く買って高く売る。その原理そのものは、多くの人が日常的に受け入れている。ところが、それが「転売ヤー」という形になると急に嫌悪感を抱く。
なぜなのだろう。
おそらく私たちは利益そのものを嫌っているのではない。自分が大切にしている物語を、誰かが単なる金儲けの道具として扱うことに反発しているのである。だから腹が立つ。だが、その一方で私たち自身も、ときに利益を求め、ときに損得で判断し、ときに価格差を喜んでいる。そこに現代社会の複雑さがある。

黒沢清監督の映画『Cloud』を思い出す。公開当時、私はあの作品を転売ヤーという特殊な人間とダークな世界を描いた映画だと受け取っていた。しかし、最近は少し違う。あの主人公は特別な怪物ではない。社会への復讐を企んでいるわけでもない。巨大な陰謀を抱えているわけでもない。
目の前に利益があるから手を伸ばす。ただそれだけである。
だが、その誘惑は決して主人公だけのものではない。程度の差こそあれ、私たちの中にも存在している。だからあの映画は不気味だったのかもしれない。

転売ヤーとは、社会の外側にいる異常な人間ではない。むしろ現代社会が生み出した、ごく自然な人間の姿なのではないか。
吉田カバンのニュースを見ながら、私はそんなことを考えた。
転売を生むのは犯罪者だけではない。何十年もブランドを愛し、その価値を信じ続けてきた人たちである。
かつての私も、その一人だった。転売の問題は商品の問題ではない。
人間の問題なのである。

今日のVoicyは、ブログとガラリと変えて、〝ブランド品に憧れていた〟私の学生時代の話をしたいと思います。
#097 地方から出てきた私が、なぜブランド品に憧れたのか
https://voicy.jp/channel/1027821/8375108

「日テレNEWS NNN」より

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