【今日のタブチ】「国家情報局は危険だ」で終わってはいけない――新聞ごとに“視点”が違うのはなぜなのか
高市政権が国家情報局の創設を検討しているという報道を読んだ。
記事によれば、省庁ごとに分散している情報を一元的に集約し、分析機能を強化することが目的だという。
安全保障環境が厳しさを増す中で、日本として情報収集や分析能力を高める必要があるという考え方には一定の説得力がある。ところが、その記事を読み進めるうちに、私は別の部分が気になった。
国家情報局という組織の創設だけではなく、通信情報や位置情報などの取得を含む情報収集能力の強化についても検討が進んでいるというのである。
私はそこで、「待てよ」と思った。これは国家情報局という新しい組織をつくる話なのか。それとも、国による情報収集権限を強化する話なのか。あるいはその両方なのか。よく分からなくなったからだ。そこで他の報道も読んでみた。
すると、さらに不思議なことに気付いた。同じ出来事を報じているはずなのに、論点がかなり違うのである。
ある記事では、国家情報局創設の意義や情報分析能力強化の必要性が中心になっている。縦割り行政を見直し、日本版CIAのような機能を持つ組織を目指すという話として読める。しかし、別の記事では、情報収集権限の拡大や通信の秘密との関係が強く意識されている。こちらを読むと、国家情報局の組織論というよりも、むしろ国民のプライバシーや権力監視の問題として見えてくる。
もちろん私は、どちらが正しいとか間違っているとか言いたいわけではない。メディアには多様性が必要だからだ。
安全保障上の必要性に焦点を当てる報道があってもいい。権力の肥大化や監視社会化のリスクに焦点を当てる報道があってもいい。全ての新聞やテレビが同じ論調になったら、むしろその方が不自然だろう。
しかし、今回、私が感じたのは「多様性がある」というレベルの話ではなかった。同じニュースなのに、見えている景色そのものが違うのである。
ある新聞の読者によっては、「日本の情報機能強化が進むのか」という話になる。
別の新聞の読者にとっては、「国民監視につながる可能性があるのではないか」という話になる。
そして、そのどちらの読者も自分が読んだ記事を基に判断する。
だが、もし最初から提示されている論点が大きく異なるのであれば、読者は何を基準に考えればよいのだろう。
私はそこに素朴な疑問を感じた。
最近はSNSによる分断が問題になることが多い。
自分と似た意見ばかりが流れてきて、異なる考え方に触れなくなる「フィルターバブル」という現象である。しかし、今回の一件を見ていると、それはSNSだけの問題ではないようにも思えた。
人は自分が信頼するメディアを読む。そしてそのメディアが重視する論点を自然と重視するようになる。それが長く続けば、読者の考えも固定化される。見ている世界も固定化される。
もちろん、それ自体が悪いと言うつもりはない。だが、同じ出来事をめぐってここまで論点設定が異なると、読者はますます自分の慣れ親しんだ世界の中だけで理解を深めることになるのではないか。
私は国家情報局への賛否を語りたいのではない。高市政権の構想を支持するか反対するかを論じたいわけでもない。
今回、私が最も気になったのは、なぜ同じ出来事なのにここまで論点が違うのかということだった。
新聞社にはそれぞれ編集権がある。大切だと思う論点も違うだろう。政治や社会を見る視点も違うだろう。
だから報じ方に違いが生まれること自体は当然のことである。
しかし、私は今回の記事を読み比べながら、学生たちに常々伝えていることを思い出した。
メディアは人間が作るものである。決して客観的な鏡ではない。取材し、情報を集め、何を重要と考えるかを判断し、限られた紙面や時間の中で伝える。その過程で、どうしても強調される部分が生まれる。そして同時に、語られない部分も生まれる。
もちろん、それは必ずしも悪意ではない。だが読者の側は、そのことを理解しておかなければならない。
目の前の記事だけを読んで、「これが全てだ」と思った瞬間に、見えなくなるものがあるからだ。
今回の国家情報局報道を読んでいて私が気になったのは、まさにその点だった。
ある記事は国家情報局の必要性を詳しく伝える。別の記事は情報収集権限の強化に焦点を当てる。
どちらも重要な論点である。
しかし、読者として本当に考えなければならないのは、「何が書かれているか」だけではない。
「何が書かれていないのか」ということではないだろうか。
私は学生たちに、メディアリテラシーとは単にフェイクニュースを見抜く力ではないと話している。
そうではなく、語られていることの裏側を考える力。意図的であるかどうかを問わず、隠れてしまった論点を探す力。なぜその報道機関はその部分に光を当て、別の部分には光を当てなかったのかを考える力。そうした力こそが重要だと考えている。
今回の国家情報局報道は、私にそのことを改めて考えさせてくれた。
国家情報局の是非よりも、新聞ごとに異なる「見せ方」の方が印象に残ったのである。
そして読者に求められているのは、どの新聞を信じるかではなく、
それぞれの新聞が何を伝え、何を伝えなかったのかを考えることなのかもしれない。
「読売新聞デジタル」より



