【今日のタブチ】田原総一朗氏の「金言」に唸る――なぜ人生には“曖昧さ”が必要なのか

先達の言葉は金言だ。
今朝の新聞でジャーナリストの田原総一朗氏が述べていた言葉も、至極の助言である。
田原氏はテレビ東京出身だが、私が入社した時にはもうすでに退社しており、会ったことがない。残念だ。ぜひ会って、いろいろ話をしてみたかった。今日のインタビューを読んで、改めてそう思った。御年92とは思えない聡明さだ。

田原氏は、高市首相には「哲学」がないと言う。それは同感だ。私も日頃からその言動を観るにつけ、「随分、主義主張がない人だなぁ」と思っている。怖いのは、主義主張があるように見せかけているところだ。それを田原氏は見抜いている。
だが、本当に感服したのは次の田原氏の言葉だ。

「高市首相は曖昧さがない」

これは聞き捨てならない、看過できない金言だ。
田原氏はその理由として、日本という国にとって「戦略的曖昧さ」が重要だと指摘する。記事の中では、自衛隊の存在が憲法上明確に規定されていないことを例に挙げながら、それでも日本は長年にわたり現実的な運用によって安全保障を維持してきたと語っている。また、中国との関係についても、対立一辺倒ではなく協調の余地を残しておくことが国益につながるとしている。つまり、国家運営とは何でも白黒はっきりさせればよいものではない。時には意図的に結論を急がず、相手との関係性や状況の変化に応じて柔軟に対応できる余地を残しておくことも必要なのだというのである。
最近はSNSの影響もあってか、人々は何でも白黒をつけたがる。善か悪か、敵か味方か、賛成か反対か。しかし現実はそんなに単純ではない。だからこそ田原氏は「戦略的曖昧さ」の重要性を語ったのではないだろうか。
要するに、高市首相には「曖昧さを残す」という発想があまり感じられないのだ。なんでもはっきりとさせたがる性格は、個人的に付き合うにはいいだろうが、国家の元首としてはいただけない。

日本には古来から「遊び」という概念がある
建築や概念における「遊び」は、単なる娯楽ではなく、空間の機能性、人間の心理、創造性を拡張するための極めて重要な要素だ。物理的な建築空間においては、「遊び」は「空間的余白」と捉えられる。一方、思想・哲学的な「遊び」は「心理的余白」と言えるだろう。オランダの歴史家、ヨハン・ホイジンガは、人間とは「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」であり、遊びは文化に先行し、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれ、遊びとして発展したと提唱した。つまり、遊びこそが人間活動の本質だというのだ。
私はここで、教育についても思いを馳せた。「モンテッソーリ教育」である。子どもを大人の価値観で無理に型にはめるのではなく、自ら考え、自ら選ぶことを重視する教育法だ。これは我が家の子どもたちも実践していた。このことについては、このあと、Voicyで詳しく話したい。☛以下参照

好きという気持ち。嫌いという気持ち。嫌だ、大好きだ。など、人はなんでもはっきりとしたがる。だが、曖昧な気持ちというのがあってもいいのではないか。
「何となく好き」「何となく嫌い」「何となく嫌だ」でもいいのではないか。さらに言えば、自分ははっきりしたくても、他者の曖昧な態度や気持ちを認める、許容するということが大切なのではないかと私は思う。
そんなことを、窓から見える木々の緑を観ながら、週末の日曜日に考えてみた。そういえば、この緑も、少し黄色っぽい緑や青っぽい緑があるなぁ・・・人間も“底抜けにおもしろい”人もいれば、“ちょっとムカつく”人もいる。だから世の中は、豊かで楽しいのだ。人生とは、すべてを白黒つけることではなく、その曖昧さを受け入れながら生きていくことなのかもしれない。

Voicyでさらに詳しくお話ししています!ぜひお聞きください!
#046 「何となく好き」でいいじゃないか。モンテッソーリ教育と田原総一朗が教えてくれた〝遊び〟の精神
https://voicy.jp/channel/1027821/8204804

「毎日新聞デジタル」より


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