【今日のタブチ】なぜそんな楽観論が浮かぶのか―― 南鳥島問題で「レアアースには困らない」と言い切った首相の一言

先日、南鳥島周辺の海底に眠るレアアース資源についての記事を読んだ。
まず私が驚いたのは、その内容以前に岡部氏の肩書だった。
「材料学者」
経済学者、政治学者、社会学者ならよく耳にする。しかし材料学者という専門分野があり、その研究者が新聞のインタビューで大きく取り上げられているのを見て、私は少し新鮮な驚きを覚えた。
私たちが日常的に使っているスマートフォンやパソコン、電気自動車などに使われるレアアースやレアメタル。その根幹を支える研究をしている人たちがいる。言われてみれば当たり前なのだが、普段あまり意識しない世界だけに興味深く読んだ。
もう一つ、初めて知った言葉があった。
「NIMBY」である。
Not In My Back Yard。必要性は認める。しかし自分の近くには持ってきてほしくない。そうした市民意識を表す言葉だという。
私はこの言葉を知らなかったが、説明を読んだ瞬間に意味はよく理解できた。
原発問題もそうだ。ごみ処理施設もそうだ。刑務所や最終処分場もそうだろう。社会に必要であることは認める。しかし自宅の近くには来てほしくない。
以前、NNNドキュメントの「高齢初犯」の取材をした際に、私もそんな現実に直面した。刑務所を出所した人などが暮らす更生保護施設は地域住民から不安がられ、煙たがられるという。
言葉にしてしまうと身も蓋もないが、人間の本音としてはよく分かる。
しかし、今回の記事で岡部氏が指摘していたのは、レアアース開発においても同じ構図が存在するということだった。
私はその部分を読んで少し考えさせられた。
南鳥島の海底に眠るレアアース。日本にとって貴重な資源である可能性がある。だが、その一方で採掘や精錬には環境負荷も伴う。廃棄物の問題もある。
そうした厄介な部分を「遠く離れた南鳥島でやればいい」という発想になっていないだろうか。
私はそこに違和感を覚える。
利益は欲しい。資源も欲しい。経済安全保障も実現したい。しかし、負担はなるべく見えない場所に置きたい。
もしそうなら、それはまさにNIMBYなのだろう。
南鳥島は日本の領土だから問題ないという考え方もあるだろう。しかし、だからといって何を押し付けてもよいという話にはならない。
私はこの記事から、日本社会が長年抱えてきた構造的な問題を見た気がした。沖縄問題もきっとそんな根源から来ているのだろう。

そして、それ以上に強烈な違和感を覚えたのが記事の冒頭に紹介されていた高市首相の発言だった。
「日本は今の世代も次の世代もレアアースには困らない」
私は正直なところ、この発言を読んだ瞬間に首をかしげた。なぜそこまで言い切れるのだろうか。
南鳥島周辺で莫大なレアアース資源が確認されていることは承知している。将来的に日本にとって大きな可能性を持つことも理解できる。しかし、現時点で産業として本格的に成立しているわけではない。
採掘技術や輸送、精錬技術、環境問題などの課題はもちろんのこと、何より「社会的合意」という民意が得られていないのではないか
言うまでもなく、資源があることと資源が使えることはまったく別の話だ。
日本近海に存在することが分かった。だから安心だ。そんな単純な話ではないはずである。
むしろ岡部氏のインタビュー全体から私が受けた印象は、研究者としての慎重さだった。夢を否定しているわけではない。しかし、夢だけを語っているわけでもない。希望と課題の両方を冷静に見ている。科学とは本来そういうものだと思う。分からないことは分からない。検証が必要なものは検証する。研究者はそうやって少しずつ前に進んでいく。
ところが政治の世界では、ときとして検証より先に結論が語られる。可能性が現実になり、希望が既成事実になる。
私はそこに危うさを感じる。

思えば日本ではこれまでも、「夢の資源」や「夢の技術」が何度も語られてきた。そのたびに日本の未来が変わると言われた。
しかし、現実はそう簡単ではなかった。
発見と実用化の間には大きな隔たりがある。研究開発には時間がかかる。コストもかかる。失敗もある。それが現実である。
だからこそ私は、「今の世代も次の世代もレアアースには困らない」という断言に違和感を覚えるのだ。それは希望を語る言葉ではなく、現実を飛び越えてしまった言葉に聞こえるからである。
南鳥島のレアアースには大きな可能性があるだろう。それは否定しない。しかし可能性は可能性でしかない。その可能性を現実に変えるには、材料学者をはじめとする研究者たちの地道な努力が必要になる。そんな長い困難な道のりを無視して楽観論だけを語るのであれば、それは科学への敬意を欠くことにもつながりかねない。

私がこの記事を読んで最も印象に残ったのは、南鳥島の海底に眠るレアアースではなかった。
「材料学者」という存在を通じて見えてきた科学の慎重さと、それとは対照的な政治の軽さだった。

「日本経済新聞デジタル」より

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