【今日のタブチ】ジンベエザメは本当に幸せなのか?――のとじま水族館「希望の再開」報道に感じた私の戸惑い
能登半島地震で被災した、のとじま水族館にジンベエザメが戻ってきたというニュースを見た。
地元にとっては明るい話題だろう。子どもたちは巨大なジンベエザメを見て歓声を上げる。水族館にとっても復興への大きな一歩であり、「希望の再開」という見出しが付くのも理解できる。
私もその気持ちはよく分かる。だが、記事を読んだ私は手放しで喜ぶことができなかった。
今回展示されたジンベエザメは、石川県志賀町沖の定置網にかかった個体だという。そこで私はまず、「なぜ逃がさなかったのか」と思った。もちろん、水族館には水族館なりの事情があるだろう。地震によって展示していたジンベエザメを失い、シンボル不在の状態が続いていた。復興の象徴としてジンベエザメの展示再開を多くの人が望んでいたことも想像できる。しかし、それでも私は考えてしまう。
野生の海で生きていた個体を人間の判断によって巨大水槽へ移すことは、本当に自然なことなのだろうか。
私はこれまでダイビングで何度もジンベエザメを見に行った。時にはクルーズ船に何日も乗り込み、ジンベエザメが出る海域へ向かったこともある。しかし、行けば必ず会えるわけではない。空からの探索情報や魚群探知機の情報を集めても、最後は自然次第だ。何日待っても現れないこともある。だからこそ、ようやく出会えた時の感動は格別だった。
さらに、多くの海域では厳しいルールが設けられている。近づきすぎてはいけない。追いかけてはいけない。触れてはいけない。そこには、ジンベエザメという生き物への配慮がある。そして同時に、人間の思い通りにはならない自然への畏敬の念がある。私は、その経験がとても大切だと思っている。
自然とは不便であり、不確実であり、思い通りにならない。だからこそ価値がある。だからこそ感動がある。ところが、水族館ではその過程がすべて省略される。
もちろん教育的価値は大きい。子どもたちが海の生き物に興味を持つきっかけになることも否定しない。遠くの海へ行けない多くの人がジンベエザメを見る機会を得られることも重要だろう。しかし、その一方で、本来は大変な苦労をして出会う生き物を、人間の都合で「見やすい場所」に置いてしまうことに私は複雑な気持ちを抱く。
私たちは何を得て、何を失っているのだろうか。
さらに気になるのは、このニュースの報じられ方である。記事に添えられる写真を見ても、その姿勢はよく分かる。そこに写っているのは、多くの場合、巨大なジンベエザメを見上げる子どもたちの姿だ。しかし、定置網にかかったジンベエザメや、水族館へ運ばれる過程が大きく扱われることはほとんどない。読者が最初に目にするのは、「なぜこのジンベエザメはここにいるのか」ではなく、「子どもたちが喜んでいる」という場面である。
その結果、このニュースは自然に「いい話」として受け取られる。
子どもたちが喜んだ。大きさに驚いた。復興への希望になった。それらは確かに事実だろう。だが、その一方で報じられないことも多い。
このジンベエザメはどのような経緯で展示されることになったのか。定置網にかかった個体を展示するという仕組みは適切なのか。その背後にビジネス的な利害はないのか。アニマルウェルフェアの観点から見て問題はないのか。
世界では近年、動物園や水族館における野生動物の飼育について厳しい議論が続いている。動物を見せることの教育的価値と、動物福祉をどう両立させるのかという問いである。ところが日本の報道では、そうした論点がほとんど語られない。
私は水族館を批判したいわけではない。のとじま水族館の関係者が復興に向けて懸命に努力していることも理解している。
ジンベエザメを見て目を輝かせる子どもたちの姿を否定したいわけでもない。ただ、一つのニュースを「いい話」で終わらせてしまっていいのだろうかと思うのだ。
復興を喜ぶことと、その裏側にある問いを考えることは両立できるはずである。私は反対だと言いたいのではない。正直に言えば、答えはまだ分からない。
ただ、ジンベエザメが戻ってきたというニュースを見ながら、素直な喜びと同時に言葉にしにくい迷いを感じた。
そしてメディアには、その迷いまで含めて伝える役割があるのではないかと思うのである。
Voicy:田淵俊彦の「日々、興奮」では、#053 ジンベエザメに会うために何日も海を旅した話、を話しています。
私の興奮を、ぜひお聞きください!
https://voicy.jp/channel/1027821/8226846
「のとじま水族館」公式HPより


