【今日のタブチ】洋画のバリアフリーは1本だけ――“日本唯一の”ユニバーサルシアターが突きつける「障害者の不可視」という“不都合な現実”
「バリアフリー映画」の記事を読んだ。
田端駅の「シネマ・チュプキ・タバタ」が紹介されていた。肘掛椅子のイヤホンからは、「古い写真が映し出された」や「男性から笑顔が消えた」というスクリーン上の場面を説明する音声ガイドが流れる。同時に、字幕には演者の言葉以外に、「集まった人の笑い声」「アップテンポな音楽」などの環境音が説明される。視覚や聴覚に障害があっても楽しめる劇場だが、まずここが“日本唯一の”ユニバーサルシアターであることに驚かされた。
ここだけにしかないのか――日本の障害者に対する意識の低さにショックを受けた。障害者だから、エンタメを楽しむ権利はない。そう言われているような気になって、心がざらついた。
2023年に公開された邦画620本のうち、音声ガイドとバリアフリー字幕の対応があった作品数は132本。割合にすると21.29%の低さである。さらに洋画に至っては、23年公開556本中8本。そのうち7本は、この劇場の自主制作であった。ということは、実質1本しかバリアフリー対応ではないということだ。障害者であることで、ほとんどの洋画を劇場で楽しむことができない。この理不尽さは何だ。
そしてさらに衝撃的な事実があった。
バリアフリー対応をおこなう障害者の方々は、単なる「モニター」扱いで、「スタッフ」として映画の中にクレジットされることはないという。
これは、映画の歴史を少し振り返れば既視感のある構図だ。たとえば無声映画からトーキーへ移行した際、日本では「弁士」と呼ばれる語り手が重要な役割を果たしていた。しかし音声が同期される映画が主流になると、彼らは急速に排除され、映画の表舞台から姿を消した。あるいはハリウッド初期においても、編集や脚本などに関わった女性たちが功績を残しながら、体系的に名前を残されなかったという歴史がある。映画は華やかな産業に見えて、その裏側では「関与しているのに見えない存在」が作られてきた。
今回の件は、それを繰り返しているようにしか見えない。なんとなく「障害者の存在を隠したい」という意図が見え隠れする気がして、嫌な気分になる。利用者としては必要だが、制作者としては“透明化”する。その構造に、強い違和感がある。
ただ、感情的な違和感だけを並べても状況は変わらない。ではどうするか。難しい話ではない。やるべきことは実はかなりシンプルだ。
まず一つは「クレジットの可視化」。音声ガイドや字幕制作に関わった人間を、他のスタッフと同等にクレジットに載せる。それだけで、「補助」から「創作」への位置づけが変わる。映画の一部であると明確にされる。
二つ目は「標準化」。バリアフリー字幕と音声ガイドを特別対応ではなく、制作工程の一部として最初から組み込む。つまり“後付け”ではなく“前提”にする。これができれば21%という数字は一気に変わるはずだ。
三つ目は「流通側の責任」。劇場や配信プラットフォームが、対応作品を積極的に編成し、利用しやすくする。選択肢がない状態そのものが差別を生んでいる。
特別な理念も、大きな予算もいらない。見えるようにする、最初から作る、届ける。この3点を徹底するだけでいい。
「バリアフリー」は優しさの話ではない。設計の問題だ。
そして設計の問題である以上、放置されている現状は、単なる遅れではなく「選択」の結果でもある。
その選択を変える意思があるかどうか。いま問われているのは、そこだ。
「シネマ・チュプキ・タバタ」公式HPより


