【今日のタブチ】無罪推定なら当たり前だろう――なぜ日本の裁判所は、今まで被告人の「手錠」と「腰縄」を見せ続けたのか

全国の裁判所で、刑事裁判の被告人が手錠と腰縄を付けた姿を傍聴人に見られないよう、ついたてを設置し、その陰で着脱を行う運用が始まった。最高裁が2026年1月、全国の裁判所に新たな運用を示したことによるものだ。

私はこのニュースを聞いて、一応は前進だと思った。しかし、正直に言えば、改善されたことよりも、これまで改善されてこなかったことの方に驚きを感じている
なぜなら、これは本来、無罪推定の原則から考えれば当然の話だからだ。
そして私は、この問題の背景には日本社会に根強く残る「見せしめ」の文化があるのではないかと思っている。
江戸時代には市中引き回しという制度があった。それは単なる逃亡防止ではない。周囲の人々に罪人を見せることで、「罪を犯せばこうなる」という社会的メッセージを発する制度だった。
もちろん現代の裁判所がそれを意図していると言いたいわけではない。
だが、手錠と腰縄を付けた被告人を人々の前にさらす運用が長年当たり前として受け入れられてきた背景には、どこか共通する精神が残っていたのではないか。少なくとも私はそう感じる。

刑事裁判の被告人は、まだ有罪が確定した人間ではない。裁判そのものが、まさにその有罪・無罪を判断するために行われている。
にもかかわらず、日本の裁判所では長年にわたり、被告人が手錠と腰縄で拘束されたまま法廷に出入りし、その姿を裁判官や傍聴人が目にすることが当たり前になっていた。弁護士会は以前から、この運用が無罪推定の原則や人格権の侵害につながると指摘してきた。

私は、むしろこちらの方が異常だったと思う。

テレビのニュースですら、警察に連行される容疑者の手錠が映り込まないよう配慮される。ところが司法の中心である法廷では、その配慮が長年存在しなかった。法を守るべき場所が、法の精神に最も鈍感だったようにも見える
もちろん今回の改善自体は評価したい。だが私は、そこにも大きな違和感を覚えている。

というのも、今回の見直しは本質的な改革というより、「見えないようにしました」というレベルにとどまっているように見えるからだ。
被告人は依然として手錠と腰縄を付けたまま法廷に連れてこられる。ただ、その姿を傍聴人から見えないようについたてで隠す。そしてその中で手錠や腰縄を外す。
ではなぜ、法廷の外で外さないのか。なぜ法廷内部にわざわざついたてを設置して着脱する必要があるのか。
本当に無罪推定を徹底するつもりなら、法廷に入る前の待機場所や通路で拘束具を外せば済む話ではないか。
実際、弁護士会は現在の運用でも裁判官には手錠・腰縄姿が見える可能性が残っていると指摘している。
私もまた、そこに少なからぬ違和感を覚える。
つまり、「傍聴人には見せない」。しかし、「裁判官が見るのは仕方がない」。そのような発想がどこかに残っているようにも見えるからだ

だが、なぜ仕方がないのだろう。

そう考えた私は、この原稿を書くにあたり、私は検察官と弁護士の両方を経験した法曹関係者に話を聞いてみた。
すると返ってきた答えは意外なものだった。
「裁判官の心証への影響はほとんどなかったと思う」というのである。
傍聴人についても同様で、そもそも被告人という立場そのものによって一定の先入観が生じており、手錠や腰縄が加わったところで印象は大きく変わらないのではないかという見方だった。
私はこの意見に考えさせられた。

なぜなら、今回の問題は「裁判官の心証に影響するかどうか」という話だけではなく、もっと別のところに本質があるように思えたからだ。

私が今回もっとも違和感を覚えるのは、こうした運用変更が、まるで画期的な人権改革であるかのように語られていることである。私には、むしろ「そんなことを今さら大改革として語らなければならない状況」の方が異様に映る。

確かに改善は改善だ。しかし、その一方で私は強い既視感も覚える。
制度は変えた。運用も変えた。だから前進した。
そんな分かりやすい物語が用意されているように見えるからだ。
本当に問われるべきは、人権を尊重する精神そのものではないのか。

私は今回の運用変更を見て、刑務所で受刑者を「さん付け」で呼ぶ運用を思い出した。
もちろん、それ自体に反対するつもりはない。
だが、呼び方が変わっただけで人権意識が向上したかのような空気には以前から違和感があった。
受刑者を「さん付け」で呼ぶことと、その人を対等な人格として尊重することは本来別の問題だからだ。
今回のついたても同じ構図に見える。
見せしめ的な運用を問題視する。そこまでは理解できる。だが、その改善をもって社会が大きく前進したかのように語る風潮には、私は別の違和感を覚える。

手錠や腰縄は見えなくなった。しかし、社会は本当に変わったのか。裁判所は本当に変わったのか。
日本人の多くは今でも、逮捕されたというニュースを見ただけで「犯人」と思い込む。
無罪推定を脅かしている最大の要因は、実は腰縄でも手錠でもなく、その社会意識の方ではないのか。にもかかわらず、ついたてが設置されると、まるで大きな改革が実現したかのように語られる

私にはそこに、制度改革そのものが目的化している現代社会の風潮が見える。
見え方を変える。手続きを変える。そして改革を達成したことにする。
しかし、本当に必要なのは、そうしたパフォーマンスではなく、人を安易に犯罪者扱いしないという社会全体の成熟ではないか。
私が話を聞いた元検察官の弁護士も、「今回の変更で最も利益を得るのは、この運動を推進してきた弁護士たちかもしれない」と率直な感想を語っていた。私も、その見方にうなずく部分がある。

裁判とは、偉い者が下の者を裁く場ではない。裁判官は被告人より上等な人間だから裁いているのではない。被告人は裁かれる立場だから人間として劣っているわけでもない。両者は役割が違うだけであり、人間としての価値は等しい。
だからこそ、無罪推定という考え方がある。
だからこそ、法廷は権力を誇示する場ではなく公平な手続きの場でなければならない。
今回のついたて設置は確かに前進だ。しかし、私は、それを無条件に歓迎する気にはなれない。むしろ問い続けたい。
なぜ日本の司法は、無罪推定という近代司法の原則から導かれるこの当たり前の結論にたどり着くまで、これほど長い時間を必要としたのか。
私には、その遅れの中にこそ、日本の司法に残る「見せしめ」の残像が見える。
そして同時に、その見せしめを批判する側ですら、制度改革の達成を成果として語ることに熱心で、その背景にある社会意識の問題には十分向き合っていないようにも見える。

ついたては設置された。それは結構なことだ。
しかし、私には、何か根本的な問題がすり替わっているようにも見える。
私たち日本人は、本当に無罪推定という原則を理解しているのか。
もし理解していないのなら、ついたて一枚で社会は変わらない。私はそう思うのである。

「朝日新聞デジタル」より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です