【今日のタブチ】国分太一氏、田原俊彦氏…セクハラ疑惑に見え隠れする「世代間連鎖」~日本テレビの社長会見に抱いた違和感

国分太一氏や田原俊彦氏に関するセクハラ疑惑が報じられた一連の騒動は、単なる個人の逸脱行為にとどまらず、先のフジテレビによる中居正広氏の問題と地続きであり、日本の芸能界における「世代間連鎖」的な価値観の継承と断絶を浮き彫りにしている。
以下に、4つの視点からその構造的背景と文化的要因を考察する。
1.「昭和的ノリ」の残響と断絶
田原俊彦氏の発言(例:「真ん中の足はもっと上がる」)は、昭和・平成初期のバラエティ文化に根差した「内輪ウケ」「男芸者」的な振る舞いの延長線上にある。そこには「マッチョイムズ」という悪習もある。こうした言動は、かつては「サービス精神」や「芸の一部」として容認されてきたが、令和の価値観では明確にハラスメントと認識されるようになっている。つまり、時代の変化に適応できなかった世代の「ノリ」が、現代社会との摩擦を生んでいるのだ。
2.世代間連鎖と「芸能界の空気」
芸能界では、先輩から後輩へと「振る舞い方」「現場の空気の読み方」が非言語的に継承される傾向がある。国分太一氏に関しても、後輩への過剰なイジりや「内輪の上下関係」が問題視されており、かつての“当たり前”が今では通用しないことを象徴している。これは単なる個人の問題ではなく、業界全体が長年温存してきた“空気”の問題とも言える。
3.メディアと社会の「アップデート格差」
一方で、メディア業界はジャニーズ性加害問題以降、コンプライアンス意識を急速に高めており、過去の“グレーゾーン”が次々と再評価されている。しかし、タレント本人の意識や行動がその変化に追いついていない場合、今回のような「炎上」や「引退」に直結するリスクが高まる。つまり、社会の価値観のアップデートと、個人・業界のアップデートの“時差”が問題の根底にあるのだ。
4.教育と再発防止の視点から
ベテラン世代に対しても「時代に応じた振る舞い方」を学び直す機会の提供が必要だ。今後求められるのは、単なる謝罪や処分ではなく、業界全体での倫理教育世代間対話である。若手タレントやスタッフが「何が許され、何が許されないのか」を明確に理解し、過去の“常識”を相対化する力を持つことが重要だ。
そして、今回の問題で私が最も重要視するのは以下の2点である。
1.虐待の世代間連鎖
研究によれば、子ども時代に虐待やネグレクトを経験した人が、成人後に他者に対して攻撃的・支配的な行動をとる傾向があることが指摘されている。これは単なる模倣ではなく、愛着形成の失敗や「自己肯定感の欠如」が深く関係しており、無意識のうちに「自分がされたことを他者に再演する」形で現れることがある。特に芸能界のようなヒエラルキーが強く、感情労働が求められる環境では、過去のトラウマが“芸”や“指導”の名のもとに正当化されやすい構造もある。もしも当該人物が過去に厳しい上下関係や人格否定的な扱いを受けてきたとすれば、それを「芸能界の常識」として内面化し、後輩に同様の態度を取ることは、虐待の再演=世代間連鎖と捉えることができる。
つまり、たとえるなら、もし当該人物がジャニー氏からセクハラなどの虐待を受けていたとしたら、その虐待が世代を超えて連鎖する可能性があるということだ。これは恐ろしいことだが、現実的にも学術的にも証明されている。
これは「悪意」ではなく、未解決の心的外傷(トラウマ)がよくない行動として表出している可能性があるという点に留意する必要がある。教育・支援の視点から加害者を臨床することが大事だということだ。「加害者にならないための教育」だけでなく、「かつての被害者としての自己理解」を促すことも、再発防止に繋がる。虐待の世代間連鎖を断ち切るには、加害者を一方的に糾弾するだけでは不十分だ。必要なのは、過去の経験を言語化し、再解釈する機会の提供。心理的安全性のある対話や、メンタルヘルス支援が不可欠である。
2.テレビメディアの責任ある立場
今回の国分氏の一件では、日本テレビの福田社長は会見で「プライバシー保護の観点から詳細は控える」と繰り返したが、この説明は「個人情報保護」を盾にした説明責任の回避ではないかとの批判が相次いだ。特に、公共性の高い人物に関する不祥事である以上、視聴者やスポンサーに対する説明責任を果たすべきだとの声が強い。
そもそも個人情報保護法は、報道機関に対しては「報道の自由」とのバランスを考慮し、一定の適用除外を認めている(同法第76条)。つまり、「報道目的」であれば、公益性のある情報開示は可能であり、今回のようなケースで「個人情報だから言えない」という説明は、法的根拠というより“都合の良い口実”と受け取られかねない。そこには私がかねがね指摘している「隠蔽体質」というテレビ局の悪癖も関係しているだろう。
今回のケースを受けて、報道機関が「プライバシー保護」と「報道の自由」とのバランスをどう捉え直すかが問われている。それには、信頼回復がかかっている。
「会見で語る」のは広報だが、「事実を報道する」のは報道機関である。この2つの領域が混同されてしまうと、今回のような説明責任の歪みを生む。
テレビ局は、メディア内部の自浄作用(self-cleansing)としての報道の独立性を再確認すべきである。

「ライブドアニュース」より

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