【今日のタブチ】この子はこの国ニッポンで生きていけるのか――駅前で立ち尽くす“小さな未来”が暗示する、見えない壁
最近、朝の駅までの道で、妙に気になる子どもがいる。
まだ小学校にも上がっていない年齢だろう。私服にリュックを背負っているが、どこへ向かうでもない。道端にただ佇んでいる。
その表情が印象に残る。
何かを待っているようで、しかし何も起こらないことを知っているかのような、静かな諦めにも似た空気をまとっている。
顔立ちは、おそらくネパールかインドか、あるいはパキスタン系。耳には小さなピアス。
駅周辺には、カレー屋が多い。どれも驚くほど旨い。
カレーは6種類ほどから選べて、辛さも調整できる。ナン付きで600円の持ち帰りランチ。正直、日本の外食の中でも相当コストパフォーマンスが高い部類だろう。
そして店で働いているのは、ほぼ例外なく外国人。日本人はいない。
おそらくそこには、互助的なコミュニティが存在している。仕事を紹介し、住む場所を融通し、同じ言葉で支え合う。異国で生き抜くための最も合理的な仕組みだ。
だが、その光景の延長線上で、ふと不安がよぎる。
あの子は、この国でちゃんと生きていけるのか。
家にもいられず、どこにも行き場所がないかのように、毎朝の通勤時に決まったように同じ場所に立っている。
もし幼稚園にも保育園にも通えていないとしたら――その時点で、すでに大きなスタートラインの差が生まれていることになる。
ここで問題になるのは、「かわいそう」という感情が湧くかどうかではない。
その感情を生み出している社会の構造だ。
外国にルーツを持つ家庭が、日本で子育てをする際のハードルは、想像以上に高い。
まず言語。保護者が日本語を十分に理解できなければ、保育園の申請すら難しい。書類は日本語で、制度は複雑で、説明は暗黙の了解に依存している。
次に制度アクセス。行政は「申請主義」だ。つまり、知らなければ何も受け取れない。補助も支援も、知って、動いた人にしか届かない。
さらに就労の不安定さ。技能実習や特定技能といった制度のもとでは、転職の自由も制限され、収入も安定しにくい。結果として、子どもに十分な教育環境を用意する余裕がなくなる。
そして、見えにくい社会的距離。地域社会との接点が薄く、学校や近隣住民との関係も築きにくい。その孤立が、そのまま子どもの孤立に転写される。
つまり、あの子が立っている場所は、単なる「道端」ではない。制度と社会の隙間だ。
ここで重要なのは、「支援を増やすべきだ」という一般論で終わらせないことだ。
それはもう、無数の人が指摘している。むしろ考えるべきなのは、日本側の発想そのものの転換ではないか。
私が一つの可能性として考えるのは、「逆方向の接続」だ。日本の側が近づくという発想だ。
これまでの支援は、「外国人を日本の制度に適応させる」方向だった。だが、それでは限界がある。そうではなく、地域の側が、彼らのコミュニティに入り込む仕組みをつくる。
例えば、あのカレー屋。
あれは単なる飲食店ではなく、地域の外国人ネットワークの拠点だ。ならば、そこを“窓口”として機能させることはできないか。行政や教育機関が、そこに情報を持ち込む。多言語ではなく、「人を通じて伝える」形で制度を届ける。カレー屋が外国人ネットワークの場になり、そこに日本の行政がお邪魔する。そんな感覚だ。「そっちから来い」という発想自体が、すでに時代遅れだ。
あるいは、地域の子どもたちと自然に混ざる接点を、商業空間の中に作る。公園や学校ではなく、「生活圏の中の接点」。
さらに重要なのは、「支援」ではなく「交換」にすること。
地域の子どもと外国人の子どもたちが、自然に同じ時間を過ごせる場をつくる。学童でも職員でもない、地域の誰かが間に入り、言葉を教える代わりに遊びを共有する。教える/教えられるではなく、関わる中で互いに慣れていく関係。そこにこそ意味がある。
彼らは決して弱者ではない。すでに、あの600円のカレーで地域に価値を提供している。ならばその対価として、教育機会や情報アクセスが自然に返ってくる仕組みにできないか。助けるのではなく、すでにある価値の循環を、別の形で返すだけだ。
「助ける」ではなく、「関係を結ぶ」。
この発想の転換がない限り、壁は見えないまま残り続ける。
「助けてやっている」「ありがたいと思え」そうした発想が、むしろ距離を生んでいるのではないか。
あの子は、今日も同じ場所に立っているかもしれない。
もしそうなら、それは個人の問題ではない。
社会の設計の問題だ。
そしてその設計は、実は、私たちの日常のすぐ隣にある。
写真:Pexels(https://www.pexels.com/)より


