【今日のタブチ】「江戸のコロンボ」は1ヵ月滞在したミャンマーの村で生まれた?──映画『木挽町のあだ討ち』が暗示する、“新しい”時代劇の幕開け

映画『木挽町のあだ討ち』を観た。主演が柄本佑氏と知って、「これは観なければ」と思った。
かつてドキュメンタリーの撮影で、佑氏と一緒にミャンマーの奥地に入ったことがある。カチン族の村に民泊し、およそ1か月近く同じ屋根の下で暮らした。私のチームには「そこに行ったら現地のものをいただく」というルールがあったが、佑氏は当然のようにその一員になり、取材班とまったく同じものを食べていた。
高床式の家の真下を鶏が歩き回り、耳元で早朝4時から甲高い「コケコッコー」が鳴り響くような環境だった。あのけたたましい鳴き声も、私たちが村を去る頃には不思議と“シーン”としていた。あれだけ毎朝のように耳元で鳴いていた鶏が、どこへ行ったのか。そんなささいな出来事まで共有できるのは、同じ時間を生きた者だけの記憶だと思う。

佑氏は、現地の人びとが大好物のコオロギを捕まえ、平然と食べていた。異国の暮らしに臆することなく、むしろ楽しみながら飛び込んでいく。気取らず、壁を作らず、いつのまにか人の懐に入り込んでしまう。その“柔らかさ”天性のものだと感じた。相手の心をつかむというより、気づいたら皆が彼に心を許している──そんな不思議な力がある

今回の映画での佑氏は、その天性が見事に発揮されていた。
ひょうひょうとしていながら、鋭さを隠し持ち、相手を煙に巻くように真相へと近づいていく。江戸時代のコロンボ、という喩えがふいに浮かんだ。周囲の人びとが、気がつけば彼のペースに巻き込まれている。その感じがスクリーンの中でもしっかりと息づいていた。
そして、それを最大限に引き出しているのが源孝志監督だと感じた。前職でドラマのプロデューサーをしていたとき、「いつか一緒に仕事がしたい」と思っていた監督のひとりだったが、結局その願いはかなわないまま終わった。そんな監督の手によって、佑氏の特性が最大限に活かされているのを目の当たりにして、不思議な感慨があった。

映画そのものについて言うと、まず「時代劇の可能性」というものを強く感じた。
私の世代の時代劇のイメージは、どうしても「チャンバラ」だった。しかしこの作品は、「謎解き」と「ミステリー」が主軸に据えられている。その構造がまず新しい。さらに冒頭から、はらはらと舞う雪景色が画面一面に広がり、幽玄な世界に引き込まれた。俯瞰ショットやドローンを使ったバーズアイズビューが、その映像美を際立たせていた。

もうひとつ驚いたのは、「勧善懲悪」ではない時代劇だったことだ。誰かが悪くて、誰かがそれを成敗する──そんな図式ではなく、「誰も悪くない」という余韻が残る。いまの時代、SNSで知らないうちに誰かを傷つけ、誰かに傷つけられてしまう。そんな世界のなかで、「実は悪気なんて誰にもないんだ」という視点を提示してくれる。とても優しい映画だと思った。

スクリーンに映っていたのは、単なる“時代劇の主人公”ではなく、ミャンマーの高床式の家で、鶏の鳴き声とともに暮らしていた、あの佑氏の延長線上にいる人物だった。彼の人間的な柔らかさが、そのまま役に乗り移っている。源監督の演出と佑氏の天性が混ざり合い、これまでの時代劇にはなかった“優しさのあるミステリー”を成立させている

この映画を観ながら、私はあの村での1か月を思い出していた。
あのときの彼が、いまスクリーンの中で生きている──そんな感覚が心に残る“なんとも言えない”余韻の作品だった。

「公式HP」より

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です