【今日のタブチ】人型ロボットがマラソンの“世界新記録”を塗り替えた日――「感動のない疾走」が示す、不気味な予告編
昨日のブログでは、中国に「ロボコップ」さながらのAI搭載ロボット警察官が登場した話題を取り上げた。人員削減や治安維持という文脈で見れば、あれは一定の社会的合理性を持つ存在だと思う。
ところが今度は、同じ中国で人型ロボットがハーフマラソン大会に出場し、人間の男子世界新記録「21キロ・57分20秒」を大幅に上回る成績で完走したという。しかも遠隔操作ではなく、“自律型”だ。米国などを含む105チームが参加し、時間をずらして1体ずつスタートするという、異様に本格的な大会だった。
正直に言えば、私はこのニュースにあまり心が動かなかった。
ロボット警察官と違い、ロボットのマラソンランナーに、どんな社会的価値があるのかが見えてこなかったからだ。
マラソンの記録更新が人々の心を打つのは、人間が自らの肉体的限界に挑むからではないか。苦しさや恐怖、諦めそうになる気持ちを抱えながら、それでも前に進こうとする姿に私たちは感動する。そこにこそ物語がある。
ロボットが無表情に走り抜け、記録を塗り替えたとしても、そこに私が読み取れる物語はない。
「単にロボットの性能を誇示したいだけではないのか」
そんな穿った見方をしてしまったのも、無理はないだろう。
ただ、少し視点を引いて考えてみると、このマラソン大会の意味は、まったく別のところにあるのではないかと思い至る。
おそらくこれは、スポーツではない。ましてや、「限界に挑戦する姿」に感動を覚えさせる目的のものでもない。
公の場で、大衆という目撃者の前に提示された、“耐久試験”だ。
長時間にわたり自律的に動き続ける。転倒せず、誤作動を起こさず、エネルギーを管理し、外的環境の変化に対応する。そんなロボットの性能を、21キロという「分かりやすい距離」で可視化したにすぎない。
そう考えると、このロボットが走っていたのはマラソンコースではなく、未来の戦場であり、災害現場であり、極地であり、そして宇宙だったのではないか、と思えてくる。
人間が立ち入れない場所。
立ち入れても、長時間は活動できない場所。
酸素や食料や帰還を前提にしなければならない人間に代わって、黙々と任務を遂行する存在。そこでは、感動は不要だ。
必要なのは、壊れないこと、止まらないこと、再現できることだけである。
ロボット警察官とロボット・マラソンランナー。
一見すると社会的意義の重さがまったく異なる二つの存在は、実は同じ方向を向いている。中国がロボット産業に国家的な力を注ぎ込んでいることを、これ以上なく分かりやすく示しているのだ。
そしてその先に見据えられているのは、アメリカとの「ロボット産業戦争」だろう。
軍事、宇宙、インフラ、資源開発――いずれの分野でも、最初に優位を築いた国がルールを決める。
宇宙空間において、人間はあまりにも高価で、あまりにも脆い。だから最初の開拓者は、人間ではなくロボットになる。
今回のマラソン大会を、単なる技術自慢として片づけるのは簡単だ。
だがその背後には、「人が行けない場所を、誰が最初に制するのか」という、きわめて現実的で冷たい競争原理が透けて見える。
感動のない疾走は、その予告編にすぎないのかもしれない。
「朝日新聞YouTubeチャンネル」より


