【今日のタブチ】「酷暑日」という言葉の正体――なぜ私たちは簡単に“オールド”を使うのか
気象庁が、最高気温40度以上の日を「酷暑日」と呼ぶことにしたという。猛暑日では足りなくなった、ということなのだろう。報道によれば、候補には「サウナ日」や「自宅待機日」といった名称もあったらしい。冗談のようでもあるが、笑って済ませられない状況なのだろう。
しかし、その一方でこうも思った。
「サウナ日」と呼ぶ人や「自宅待機日」と呼びたい人がいてもいいのではないか。
多様化、多様性と盛んに言われている割には、私たちは何かに名前を付けた瞬間、それを一つの呼び方に固定し、ステレオタイプ化してしまう。言葉が整理のためにあるはずなのに、整理されすぎて、考えなくても済む状態を作ってしまっているように見える。物事が前に進んでいるのではなく、むしろ後退しているように感じてしまうのは、私だけだろうか。
だから、この「酷暑日」という新しい言葉を聞いたとき、私は素直に「なるほど」とは思えなかったのだ。便利になったというより、何かをごまかしているように感じたからだ。言葉を与えることで、異常さが整理され、受け入れ可能なものとして処理されてしまう。本当は、“酷暑”というその現象が問題なのに、一辺倒の新しい言葉を与えることで、“普通のこと”のように聞き流してしまうように思えてしまう。
新しい言葉が生まれること自体は、もちろん珍しいことではない。社会が変化すれば、言葉も増える。ただ、その増え方、使われ方には、それなりのクセがあることに注意しなければならない。
思い浮かぶのが、「オールドメディア」という言葉だ。かつては単に「メディア」あるいは「マスメディア」と呼ばれていたテレビや新聞が、SNSや動画配信の登場によって、いつの間にか「オールド」と名付けられた。わざわざ古いと宣言する必要があるのだろうか、とずっと引っかかっていた。
「オールド」と呼ばれた瞬間に、その対象は“更新されるべきもの”“いずれ消えていくもの”として扱われる。いわゆる“ラベリング”だ。それは、説明のための分類というより、価値判断があらかじめ埋め込まれている言葉だ。言葉が現象を決めつけてしまっている、と言ってもいいだろう。歳を取って、その手の言葉に敏感になっているだけかもしれないが、それでもやはり、この雑な切り分けには抵抗がある。
振り返ると、行政や企業が生み出してきた「新しいネーミング」には、同じような違和感を覚えた例がいくつもある。
たとえば「プレミアムフライデー」。月末の金曜日は早く帰ろう、というキャンペーンだったが、月末こそ忙しい職種は多く、「プレミアム」という言葉と現実の乖離が際立った。制度の設計以上に、名前が明るすぎたせいで、うまくいっていない現実が余計に見えてしまった印象がある。
「Go To トラベル」もそうだ。コロナ禍の中で、「Go To」という動きの強い言葉は、慎重さや不安と噛み合わなかった。政策の是非は別として、ネーミングのテンションが社会の空気とずれていたことは否定しがたい。
海外でも似た例がある。アメリカで1980年代に導入され、短期間で撤回された「New Coke」だ。コカ・コーラ社が味を変更し、「新しくなったコーラ」として打ち出したものだったが、長年親しまれてきた従来の味を求める声が予想以上に強く、結局「Coca-Cola Classic」として元の製品が復活することになった。進歩を正面から宣言するネーミングが、結果的に「古いもの」の価値を際立たせてしまった、象徴的な例だ。
こうした例を眺めていると、新しい言葉は現象を説明するためだけに生まれているわけではないと感じる。議論を単純化し、価値の序列をつけ、時には思考を止める。そのための便利な装置として機能している場合も多い。
「酷暑日」も、もしかしたらその一つなのかもしれない。異常気象の構造や責任を考える代わりに、名前を与えて日常語にしてしまう。そうやって、慣れていく。
言葉が増えることを、私は無条件に進歩だとは思えない。新しい名前が付いた瞬間に、切り捨てられる文脈や、見なくてよくなる現実がある。だからこそ、その言葉がどこから来て、何を隠しているのかを、少し立ち止まって考えてみたい。
「オールド」と呼ばれる側に立つ年齢になったから、こう感じるのかもしれない。それでも、新しい言葉がやけに軽く、生産的に見える社会には、やはり違和感が残る。
「au Webポータル」より


