【今日のタブチ】AIで作られたドキュメンタリーは“嘘”と呼べるのか――映画『蒸発』に立ちはだかるディープフェイクという「砦」

映画『蒸発』を観た。東京ではすでに公開されているが、横浜では昨日が初日。前々から気になっていたので、早速、いつものシネマリンへ。この劇場は普通の劇場ではかからないこういった“良作”を上映してくれるので、助かっている。「F1」が私のいつもの席だが、土砂降りにもかかわらず、会場は超満員だった。
『蒸発』は、日本で毎年およそ8万人にのぼるとされる失踪者の中でも、いわゆる「蒸発」と呼ばれるケースに焦点を当てたドキュメンタリーだ。借金、家庭、仕事、人間関係など、理由はさまざまだが、ある日突然、社会との関係を断ち、別の土地で生き直す人々がいる。本作は、そうした人々と、その周囲に残された者たちの姿を追っている。

少し前に、東京で先にこの映画を観たあるベテラン俳優の方から、以下のようなFBメッセージをもらった。

既にご覧かも知れませんが、 今「蒸発」というドキュメンタリー映画が公開されております。そこで、「登場人物のプライバシー保護という観点から、AI技術を使い顔や音声に加工を施しています」という断りがあって映像音声処置がなされています。つまり、AIでモザイクなどの代わりに顔の表情や声が作られて場面が進んでいきます。これ、日本のドキュメンタリーでは、初めてのことかと思います。これに関して田淵さんのご見解をお聞かせ頂けないかと思い連絡しました。 AI生成となると、音声加工やモザイクとは違い演出の範囲を超える様にも思ったりするのですが… 自分では、今回のケースを受け止めかねている状態です。

彼の言い分はこうだ。
・この映画には“ある萌芽”を見た気がするが、ドキュメンタリーに於いては演出がどれだけ施されようとも、記録されたものは画も音も現実のものでないといけないように思っている。
・取材対象者の顔をディープフェイクで創作されると実物の“改ざん”になるのではないかという危惧を抱いている。
「取材対象者のプライバシー保護の為に」というのであれば、モザイク、ボカシ、ボイスチェンジャーで充分ではないか。そんなふうに、“プライバシー保護”が大義名分として使われてしまうことへの危険性を感じる。
また彼は、「鑑賞者は、ボカシやモザイクから表情を読み取るべきだ。作家の演出の手を一瞬でも離れてしまったディープフェイクの表情を、鑑賞者が『実際の取材対象者に限りなく近い情感だ』と受け取ってしまう危険がある」とも言及している。「ドキュメンタリーに情報操作や誘導は当然含まれているだろうが、現実のモノをベースに置く事は“砦”ではないか」と言うのだ(以上、ほぼ原文のまま)。

彼は長年、ドキュメンタリーにも携わり、そのナレーションを担当してきた。だからこその、もっとも、かつ素晴らしい意見だと思った。
ということで、今回はこの映画の内容はさて置き、「ドキュメンタリー作品にディーフフェイクの生成AIを使用することについて」考察をしたい。

まず、私の率直な初見の感想だが、「よく出来ているな」と思った。昨日は、初日ということで舞台挨拶もあったので、会場からはそのような質問も出た。監督の森あらた氏はそんな疑問に真摯に答えていた。
私もドキュメンタリー、過去の作品で言えば「ストーカー加害者」や「高齢初犯者」「少年犯罪者」などの比較的ハードな社会的題材を扱う際に、同じような問題にぶち当たってきた。個人が特定できないようにかけるモザイクやぼかしは、表情が見えないため視聴者が感情移入しにくいという欠点があるということだ。その点、現在のAI技術はとても進んでいて、もともとの被取材者の表情を損なうことなく、架空の人物にそのまま塗り替えることができる。実際の映画で泣いている表情はもとの素材も泣いているし、笑った顔はもともと笑っている。その部分においては、“噓”はない。
だが、この「“噓”がない」というのは、あくまでも作り手側の言い分で、事実は誰にもわからないというところに“薄気味悪さ”がある。ロボットが論じられる際の、「不気味の谷現象」に近い感覚だ。実際に、本作を観ていて、ボカシが外れてAIの顔になったときには、「ドクン」と心臓が高鳴りした。
そして問題なのは、それが本当に「“噓”がない」のかどうかは、観る側が信じるしかないということだ。私は作り手側の経験が長かったので、基本的には作り手を信じたいと思っている。だから少なくとも、私はそれを事実として受け取っている。だからこそ、正直言って「顔がどうであろうと、関係ない」「顔が別人でもいいではないか」と思ってしまうのだ。
この感覚は、受け手が“どんな立場にある人間なのか”ということによっても、異なってくるだろう。例えば、今回のベテラン俳優の言葉のように、日々“演じる”ことが仕事になっている人からすれば、「AIが演じているのであれば、それはドラマと同じでフィクションになる」と感じるのは当然のことだ。
「モザイクやぼかしであったとしても、そこから観る者は想像し、意図を読み取るべきだ」という主張ももっともだ。本来、ドキュメンタリーを観る側にはそれ相当のリテラシーが必要だ。しかし、いまの視聴者にそれだけの“視聴負荷”をかけるのは酷だというのが私の率直な意見である。これだけSNSやインターネットの仮想現実が私たちの生活を侵食している現状において、悲しいかな、その“理想”は現実的ではない

この映画はまず海外で上映されることから始まっている。これも舞台挨拶で森監督が述べていたが、その理由は「出演者の顔出しの許諾が、海外での上映でしか取得できなかった」からである。この構図は、伊藤詩織氏の『ブラックボックス・ダイアリーズ』がまず海外上映から始まった経緯とも重なる。それは、なかなか取材対象者の許可が下りなかったからだ。
つまり、本作は“顔出し前提”で制作されたもので、最初から“AIで作り込む意図”はなかったということだ。海外での反響を受けて国内でも上映したいとなったときに、「このままでは許諾がおりない。どうしようか?」ということで、表情を隠したくないという意図を全うするために、“AI生成”という手段に行きついた。極端に言えば、そういう流れの中で作られたのが本作であり、決して視聴者の想像力を削ぐ意図でも、“砦”を踏み越えてしまおうという野心があったわけでもない
それほど、プライバシー侵害による訴訟問題が怖いということに尽きる。
一方で、作り手の矜持として、被取材者たちの表情は“どうしても”見せたかった。そういった、いわば「苦肉の策」が今回のAI使用の措置となった経緯ではないかと私は分析している。

今回の映画は、映像作品の「作る側」「観る側」両方に、たくさんの“気づき”を与えてくれている
制作陣や映像を生業とする者たちには、“作り手の倫理観”というボールを投げかける。と同時に、私たち見る側にも、その作り手の倫理観の有無や度合いを見抜くという“リテラシー能力”を問うている。ベテラン俳優の彼が述べたように、本来で言えば「モザイクの表情を想像する力」が必要なのは明白だ。しかし、いまの「現実と非現実」がごちゃまぜの時代にそれは難しいのかもしれないと考えることも重要だ。そしてさらには、そのことについて議論を重ねることも必要なことである。

ニセモノの映像を作ろうとすれば、いくらでもできてしまう今。そこに踏み込んでしまうかどうかは、作り手のモラルの問題だ。だが、映像は人間が創り出すものであるから、万能ではない。“噓”や“事実誤認”などの間違いが混在することもある。そういった現実をしっかりと知りながら、私たちは“ホンモノの”映像を見抜く必要がある。

「映画.com」より

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