【今日のタブチ】「公共の福祉」よりも「自由や権利」が優先される?――高市首相の認識にある“決定的なズレ”

今日は憲法記念日だ。
であれば、このテーマに触れないわけにはならない。
とはいえ、教科書的な話をするつもりはない。憲法と聞いて私が思い出すのは、ある違和感だ。それもかなり引っかかり続けている類の違和感である。

高市氏が2021年の著書で示した現行憲法への評価――「『公共の福祉』よりも『自由や権利』が圧倒的に優先されている」という趣旨の認識だ。これを読んだとき、私は「?」と思った。そして、その違和感は今も消えていない。

まず前提として確認しておく。
現行憲法は間違いなく、自由と権利を強く打ち出した憲法である。戦前の大日本帝国憲法では、人権は「法律の範囲内で」認められるものにすぎなかった。国家が上にあり、権利はその下に置かれていた。これに対して戦後憲法は、人権を「侵すことのできない永久の権利」として位置づけ、国家を縛る側に置き直した。
この転換は偶然ではない。戦争の中で国家が「公益」や「秩序」を理由に個人をいくらでも抑え込めたという反省を基礎に設計されたものだ。
さらにGHQ草案の段階でも、人権は原則最大限保障し、例外的に「公共の福祉」で調整するという枠組みが導入されている。 ここまで見れば、基本方向が「自由・権利を強く打ち出したもの」であることは動かない。

では、私の違和感の正体は何か。
おそらく「公共の福祉」という言葉の理解だ。
一般には、社会全体の利益、あるいは国家の秩序維持といった意味で捉えられることが多い。そうすると、それが上位にあり、自由や権利を外から制約するものだという発想になる。しかし現行憲法の構造はそうなっていない。むしろ逆だ。
「公共の福祉」とは、人権の外にある強い概念ではなく、人権の内部でそれらを調整するための原理として理解されてきた。例えば、ある人の表現の自由が別の人の名誉を傷つける場合がある。ある人の営業の自由が周囲の生活環境を損なうこともある。こうした「人権同士の衝突」をどう調整するか、そのためのルールが公共の福祉である。

ここには上下関係はない。
自由と公共が対立しているのではなく、自由を成り立たせるための仕組みとして公共が組み込まれている。現行憲法は「自由が上、公共が下」という単純な構造でもなければ、その逆でもない。「自由を最大限認め、その内部で衝突を最小限に調整する」という設計なのである。

ここを踏み外すと議論は崩れる。
「自由が優先されすぎている」という言い方は、公共の福祉を自由の外側にある上位概念とみなす前提に立っている。しかし現行憲法はそもそもそういう使い方を許しにくい構造で作られている。問題の核心はここにある。
現行憲法は「自由を優先しすぎた」のではない。「公共」の名のもとに自由が抑圧されることを防ぐために設計された憲法なのである。

考えてみれば当然だ。
戦前の問題は、自由が弱かったことではない。「公共」や「国家」という言葉さえあれば、ほぼ無制限に人権を制約できたことだった。だからこそ戦後は、曖昧な公益や解釈次第で拡大できる秩序では人権を縛れないようにした。制約するなら理由は具体的でなければならない。他者の権利との衝突など、説明可能な場面に限定する。これは理念ではなく設計思想であり、歴史の反省そのものだ。

だからこそ、高市首相の主張には違和感が残る。
自由と権利を強く打ち出したこの憲法を「行き過ぎ」と捉える視点に対してである。それは単なる評価の違いではない。この憲法がそもそも何を乗り越えようとして作られたのか、その出発点への理解がずれているのではないかという違和感だ。
高市首相は、こうした現行憲法の成り立ちや目的を、本当に理解しているのか――疑問を抱かざるを得ない。

改めて言う。
現行憲法は確かに自由と権利を強く位置づけた憲法である。しかし、それは公共を軽視した結果ではない。むしろ「公共」という言葉がどれほど危うく使われうるかを知った上で、その濫用を防ぐために意図的に組み上げられたものだ。その構造をどう捉えるのか。憲法記念日に問われるべきは、まさにそこではないか。

「Amazon公式HP」より

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