【今日のタブチ】「日本と同じだ」というイラン大使の発言――核問題は“能力”ではなく“信頼”なのか
東京新聞のインタビューで、ペイマン・セアダット駐日イラン大使が語った一言が気になった。
「高濃縮ウランは日本と同じく平和利用目的だ」
この言葉をそのまま受け取り、少し極端に言えばこうなる。
日本もイランも同じ。ならば日本も核兵器を保有しているということになるのか――。
この直感的な違和感は実に重要だと思う。
そして結論から言えば、この発言は「嘘」と断定するよりも、「論点をずらした非常に巧妙な言い方」と捉えるのが正確だ。
まず整理しておきたいのは、ウランというものは「持っているだけ」で問題になるわけではないということだ。問題は“どこまで濃縮しているか”にある。
原子力発電で使うウランは、一般的に3〜5%程度の低濃縮ウランだ。一方で核兵器に使われるのは90%以上のいわゆる兵器級高濃縮ウラン。つまり「濃縮」という行為自体は同じでも、その“到達点”がまったく違う。
ここでイランの問題が浮かび上がる。イランは60%程度までウランを濃縮した実績がある。この60%という数字は中途半端に見えるが、実は非常に意味がある。技術的には、天然ウランから60%まで引き上げる工程のほうが、60%から90%にするよりも遥かに難しい。言い換えれば、60%に到達した段階で、核兵器級への「あと一歩」の入り口に立っていることになる。
つまりイランの主張はこうだ。
「最終的に兵器にしていないのだから問題はない」
しかし国際社会が見ているのはそこではない。
「なぜそこまで濃縮する必要があるのか」という点だ。
ここで日本との違いが決定的になる。日本は原発用の低濃縮ウランしか扱っていない。少なくとも現実の運用では、イランのように60%まで濃縮する必要性は存在しない。
では、イランは嘘をついているのか。これはそう単純ではない。
イラン政府は一貫して「核兵器は不要であり、平和利用のみ」と主張している。この“言葉”自体が即座に虚偽と断定されているわけではない。ただ問題は、行動がその言葉と一致していないように見えることにある。
このズレが、国際的な不信を生んでいるのだ。
この問題を考える際に重要になるのが、「潜在的核保有国」という概念だ。これは実際に核兵器を持っているわけではないが、技術的には短期間で作れる能力を持つ国を指す。実は日本はこのカテゴリーに入ると一般的に見られている。
日本は高度な原子力技術を持ち、再処理によって分離されたプルトニウムも保有している。このプルトニウムは本来、MOX燃料などとして使う前提のものだが、理論上は核兵器への転用も可能な物質だ。だからこそ国際社会の中では、日本は「作ろうと思えば作れる国」と認識されている。
それでも日本が問題視されない理由は明確だ。
政治的意思と透明性である。
日本は非核三原則を掲げ、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」と明言している。そしてIAEA(国際原子力機関)の査察を全面的に受け入れている。つまり「能力はあるが、その意思はなく、行動も完全に可視化されている」。
一方でイランはどうか。査察をめぐって長年対立があり、未申告施設の問題なども指摘されてきた。つまり「何をしているのか完全には見えない」状態が続いている。
この違いは確かに大きい。ここまでは異論はないだろう。
ただ、ここで立ち止まる必要がある。本当に日本は「信頼されている側」と言い切れるのか、という問題だ。
日本は非核三原則やIAEA査察の受け入れなど、制度的な透明性を備えている。それは事実だ。だが、それだけで国際社会から全面的に信頼されていると断定していいのかとなると、話は別になる。
そもそも「信頼」というものは固定されたものではない。積み重ねで形成されると同時に、政治的な言動によって容易に揺らぐ。
例えば、安全保障政策の変化や防衛装備の輸出拡大の議論。あるいは、政治指導者の発言ひとつで国家の姿勢は大きく受け止め方が変わる。仮に将来、より強い軍事志向を打ち出すリーダーが現れた場合、日本に対する評価がこのまま維持される保証はどこにもない。
さらに言えば、日本は「潜在的核保有国」と見なされている側面を持つ以上、「能力がある国」であることは事実として認識されている。これは裏を返せば、「意思次第では変わり得る国」として見られているということでもある。
そう考えると、「日本は信頼されているがイランはされていない」という単純な二分法は、楽観的すぎる。
イランは「言葉と行動のズレ」によって強い疑念を持たれている。しかし、日本もまた、その前提が永続する保証はない。
セアダット大使の「日本と同じだ」という発言に違和感を覚えた理由は、おそらくここにある。
現時点の日本とイランが同じだとは到底言えない。だが、「信頼」という一枚のカードだけで両者を完全に分断してしまうことにもまた、どこか危うさが残る。
核問題の本質は「能力」だけでも「制度」だけでもない。
そして「信頼」もまた、固定されたものではない。
同じ言葉を発していても、その重みは状況によって変わる。
そう考えたとき、この駐日イラン大使の発言は単なる詭弁として切り捨てるのではなく、「信頼とは何か」を逆に問い返してくる言葉として受け止める必要があるのではないか。
私には、彼の述べた「日本と同じだ」という言葉が、日本の信頼もまた固定されたものではないという前提にあえて触れているように思えてならない。
「東京新聞デジタル」より


