【今日のタブチ】“曖昧さ”は「制裁のトリガー」――日本国旗損壊罪法案に見え隠れする、“雰囲気”で処罰される社会の危うさ
日本国旗損壊罪法案に、強烈な違和感を感じている。
国民が納得するような説明をしないまま、国会成立を目指す自民党に強い危惧を抱く。寄せ書きや実写映画での損壊場面の上映、アニメやゲーム・漫画などの創作物、AIが生成したものなどを対象外とすることで、何となく“説明責任”を果たしたように見せかけているようにも思える。しかし、実際には説明の本質にほとんど踏み込んでいない。
そもそも「人に著しく不快、嫌悪の情を催させる方法」での損壊という“曖昧な”判断基準で、処罰対象とするかどうかを決めるというのは、危険すぎると感じるのは、私だけではないはずだ。
自民党が処罰対象の例として挙げる「国・自治体の庁舎に掲揚された国旗を引きずり降ろして投げ捨てる」は、“引きずり降ろさず”静かに降ろせばいいのかと感じることや、“投げ捨て”なければいいのかという疑問が生じる。また、「公園や公道などで国旗を勢いよく踏みつけてどろどろにする場合やふん尿などを擦り付ける」は、“勢いよく”という度合いも人によって感じ方が違うだろうと思ってしまう。
この“曖昧さ”こそ、私が最も強い違和感を覚えるポイントだ。
法というものは、本来、誰が読んでも同じ結論に至るように設計されるべきものだ。ところが今回の基準は違う。「著しく不快」「嫌悪の情」といった、極めて主観的な感覚に処罰の可否を委ねている。
これは言い換えれば、「解釈する側」が自由に線を引けるということでもある。
どこからがアウトで、どこまでがセーフなのか。その境界線が曖昧であればあるほど、最終的な判断は“運用する側の都合”に左右される余地が大きくなる。
ここに危うさがある。
そしてこの構造は、すでに現代社会の至るところに広がっているのではないか。
SNSを見ればよく分かる。「なんとなく不謹慎」「ちょっと不快」「配慮が足りない気がする」。こうした曖昧な言葉が、事実上の「社会的制裁のトリガー」として機能している。
そこに明確なルールや基準はない。それでも“空気”や“雰囲気”によって、人が叩かれ、排除されていく。
何となくアウト。何となく炎上。何となく謝罪。この「何となく」が積み重なった先にあるものは何か。
それは、“誰もが自分で線を引けなくなる社会”だ。
そしてもう一つ重要なのは、この曖昧さが、取り締まる側にとって極めて都合が良いという点だ。
基準が曖昧であればあるほど、「今回は見逃す」「今回は厳しくいく」といった運用の“さじ加減”が可能になる。
つまり、同じ行為であっても、対象となる人物や状況によって扱いを変えることができてしまう。
これは歴史の中で繰り返されてきた、極めて典型的な構造でもある。
例えば過去の権威主義的な体制では、「国家への侮辱」「秩序を乱す行為」「反社会的」といった、抽象的で幅の広い概念が処罰の根拠として使われてきた。
これらはいずれも、一見するともっともらしい。しかし実際には、その解釈は常に権力側に委ねられていた。
結果として何が起きたか。
批判者だけが選択的に締め出され、表現や行動の自由は徐々に縮小していった。
注意しなければならないのは、こうした変化は決して「いきなり」起きるわけではないということだ。
最初は小さな違和感から始まる。「これくらいなら問題ないだろう」という曖昧な合意が積み重なり、気づいたときには後戻りできないところまで進んでいる。
今回の法案に対する私の違和感は、まさにそこにある。
国旗を大切にするという価値観そのものを否定しているわけではない。しかし、その保護の方法が「曖昧さ」に依存している時点で、それは別のリスクを内包してしまう。
“何となく不快だから罰する”。
この論理が一度許容されれば、その適用範囲はどこまででも拡張できる。
そしてそれは、やがて国旗の問題にとどまらない領域へと広がっていく可能性がある。
だからこそ、今この段階で「曖昧さ」に目を向ける必要があるのではないか。
何となく納得するのではなく、本当に納得できる説明がなされているのか。それを問い直すこと自体が、社会にとって重要な“ブレーキ”になり得る。
「東京新聞デジタル」より


