【今日のタブチ】ホルムズ海峡での掃海派遣に強い懸念を覚える――「平和のため」「国益」の大義名分の裏で“さらされる命”
私は昨日も3つの法改正について書いた。その背景には、この国の政治が国民への十分な説明や合意形成を軽視しながら、大きな方向転換を進めようとしているのではないかという危惧がある。
そして今回、東京新聞の記事を読んで、その危惧は決して杞憂ではないという確信にも近い思いになった。
アメリカ、イラン、イスラエルの戦闘終結を見据えて、政府・与党内で、和平実現後の貢献策に関して、ホルムズ海峡への海上自衛隊掃海部隊派遣が有力な選択肢として検討されているという内容だ。記事では、現場の自衛官が「掃海で命を落とすというのは、結構現実的だ」と証言している。また、戦後の掃海活動では約80人が殉職していることも紹介されていた。
もちろん、自衛隊員は国防に携わる職務を担っている。
しかし、それを理由にして「危険な任務だから仕方がない」で済ませてよい話なのだろうか。私は率直に言って、この議論を進めている政府要人たちに対して強い違和感を覚える。
もし自分の息子や娘、孫がホルムズ海峡へ派遣される立場だったとしても、今と同じように語れるのだろうか。
「国が決めた」「政府が決めた」だから従う。
そうした思考停止こそ、戦前の日本がたどった危険な道に通じるものではないか。
民主主義国家において最も重要なのは、政府への服従ではない。政府の判断を国民が検証し、必要なら異議を唱えることである。
今回、私が特に問題だと思う点は二つある。
一つ目は、この派遣が本当に「平和のため」なのかという点である。
記事によれば、高市首相は英国など4カ国が出した共同声明への参加を表明している。また、トランプ米大統領は以前からホルムズ海峡への各国の関与に期待を示していたという。
もちろん、国際社会の安定に日本が貢献すること自体を否定するつもりはない。しかし、その目的が純粋な平和構築なのか、それとも日米関係の維持やトランプ政権への配慮なのかによって話はまったく変わってくる。
もし後者の側面が少しでもあるのであれば、それは「平和のため」という単純な美談ではなくなる。政治的・外交的な利益のために、日本の若者たちが命の危険を背負うことになるからだ。
それならばなおさら、政府には説明責任がある。
なぜ今、日本がそこまでしなければならないのか。なぜ日本人が危険を負う必要があるのか。国益とは具体的に何なのか。リスクと見返りは本当に釣り合っているのか。
こうした問いに対して、国民が納得できる説明が必要ではないか。
私はむしろ、このレベルの問題は国会審議だけで済ませるべきではなく、「国民の総意」を確認するほどの重いテーマだと思う。
そして二つ目である。
私は、この問題が先日来の3法改正とまったく無関係とは思えない。
もちろん、政府が最初からホルムズ海峡派遣を狙っていたという証拠はない。だから断定はしない。
しかし、政治学には「サラミ戦術」や「オーバートン・ウィンドウ」という考え方がある。
一度に大きな政策変更を行えば国民の反発を招く。だから小さな変更を繰り返し、少しずつ既成事実を積み上げる。当初は受け入れ難かったことでも、繰り返されるうちに社会が慣れ、それが「普通のこと」になっていくのだ。こうした現象は学術的にも指摘されている。
私は、ここに強い危惧を抱く。
国民が反発しそうな法改正を次々と進める。反対の声が起きても押し切る。それが成功体験となる。そして次の段階として、「平和のため」という大義名分を掲げながら、自衛隊の海外での危険任務への理解を求める。
そんな流れが、もし存在するとしたらどうだろう。国民は気付かないうちに、少しずつ抵抗感を失っていくことになる。
私はこれを陰謀論として語っているのではない。むしろ民主主義国家だからこそ、そのような可能性を常に監視しなければならないと言いたいのである。
今回の記事で印象的だったのは、自衛隊幹部のこんな言葉だった。
「出動を決めるのは政治だ」
まさしくその通りである。出動を決めるのは政治家だ。しかし、機雷に向かうのは政治家ではない。命の危険にさらされるのは自衛隊員だ。その帰りを待つ家族だ。
だからこそ私は問いたい。
政府は本当に国民に説明し尽くしたのか。本当に国民的議論は行われたのか。そして何より、自衛隊員の命を危険にさらしてまで実現しなければならない国益とは何なのか。
「平和のため」という言葉は美しい。しかし、その言葉の裏にある現実から目を背けてはならない。
今の日本に必要なのは、耳障りの良いスローガンではない。
命を懸ける理由を、国民に真正面から説明する政治である。
「NOVAIST」HPより



