【今日のタブチ】ホストは「女性の敵」なのか――歌舞伎町の読書会が教えてくれた、「見えないもの」の“本当の”価値
ホストと聞くと、どうしてもネガティブなイメージが先に浮かぶ。
近年は高額な売掛金問題が社会問題化し、「女性をだましてお金を使わせる商売」という印象を持つ人も少なくない。私自身も決して好意的なイメージを持っていたわけではない。
しかし、今朝の新聞で紹介されていた歌舞伎町のホストクラブで開かれる読書会の記事を読んで、その見方を少し修正しなければならないと思った。
歌舞伎町のホストクラブで毎月開催されている読書会。ホストと参加者が同じ本を読み、感想を語り合うという取り組みだ。
なかなか面白い試みである。
もちろん業界全体の問題がこれで解決するわけではない。しかし、「ホスト=あくどい商売」という単純な図式だけでは語れない世界があることを、この読書会は教えてくれる。
考えてみれば、接客業とは本来、人間理解の仕事だ。
客が何を求めているのか。何に悩み、何に喜び、何に傷つくのか。相手を観察し、空気を読み、言葉を選びながら対話する。そこには気遣いも必要だし、知性も必要になる。
女流作家の室井佑月氏も、かつて銀座でホステスとして働いていた経験を持つ。接客の現場で培われる人間観察力や会話力が、その後の文章表現につながることは不思議ではない。人を観察し、人の本音を引き出し、人の心の動きを読む。その営みは、優れた文章を書く作家の仕事ともどこか通じている。
記事の中で特に印象に残ったのが、この読書会を運営する手塚マキ氏の言葉だった。
「ホストは色恋でお金を奪うのではなく、言葉を用いて人と向き合うプロであるべきだ」
まさにその通りだと思う。
客の恋愛感情に付け込み、高額な売掛金を背負わせるような営業をしているホストにこそ聞かせたい言葉である。
そして私は、この言葉を読んでいて別のことを考えた。
なぜホストクラブで読書会なのだろう、と。
そこには単なるイメージ向上策以上の意味があるように思えた。
いまの時代はタイパや時短が重視される。動画は倍速再生され、SNSは短文化され、情報は要約される。私たちは毎日、膨大な活字に触れている。
だからよく言われる「今の若者は活字を読まない」という意見には、私は少し違和感がある。
若者たちは活字を読んでいないのではない。むしろ昔より多くの活字を読んでいる。
ただし、それは情報という名の活字であって、読書のための文字とは違う。
私は、この二つはまったく別物だと思っている。
SNSの投稿は情報を得るために読む。ニュースアプリも結論を知るために読む。検索結果も答えを知るために読む。
しかし、小説やエッセイや物語の文字は違う。そこには映像がない。声もない。表情もない。読者は文章から情景を想像しなければならない。
登場人物の息遣いも、街の空気も、部屋の匂いも、自分の頭の中で組み立てなければならない。
情報は自分で見つけ出さなければならないし、結論は自分で推察しなければならない。
つまり、読書とは想像力のトレーニングなのである。
そして想像力とは、他人の立場を想像する力でもある。相手がなぜ怒ったのか。なぜ苦しんでいるのか。なぜ自分とは違う考え方をするのか。
そうした他者理解の土台になる。
犯罪者の更生もそうだろう。認知症の人への理解もそうだろう。障害のある人への支援もそうだろう。異なる文化や価値観を持つ人との共生もそうだろう。
必要なのは知識だけではない。相手の見ている世界を想像する力である。
だから私は、ホストクラブで開かれる読書会の記事を読みながら、実は読書そのものの未来について考えていた。
AIが発達し、映像があふれ、あらゆるものが可視化されていく社会。普通に考えれば、文字の価値は下がるようにも見える。
しかし、私は逆ではないかと思う。
見えるものが増えるほど、見えないものの価値は高まる。映像が説明してくれる世界が広がるほど、自分の頭の中で考え、想像し、補完する行為の価値はむしろ上がる。
読書とはその代表的な営みである。
そう考えると、ホストクラブの読書会は単なるイベントではない。
「言葉で人と向き合う」という極めて人間的な行為を取り戻そうとする試みなのかもしれない。
小学校や中学校で国語教育の時間が減り、読書習慣の衰えが指摘されるなか、私はむしろこれからの時代こそ読書が重要になるのではないかと思う。
本を読むことは知識を増やすためだけではない。見えないものを想像する力を養うためである。そして、その力こそが人と人をつなぐ。
歌舞伎町のホストたちが始めた小さな読書会の記事は、そんな当たり前でありながら忘れられつつある価値を、改めて私に考えさせてくれた。
「東京新聞デジタル」より


