【今日のタブチ】「ベトナム人ら協力し救助」のすぐ右に「ベトナム国籍の男が殺害」の記事――新聞メディアに隠された“無意識のラベリング”

新聞を読んでいて、思わず手が止まった。熊本地震の記事である。

熊本県八代市で、倒壊した家屋の下敷きになった高齢女性を、ベトナム国籍の人たちが協力して救助したという内容だった。余震が続くなか、助けを求める声を聞き、危険を顧みず瓦礫をどかし、女性を助け出した。立派な行動だと思う。
人命がかかった緊急事態で、とっさに体が動く人はそう多くない。まして自身も地震への不安を抱えていたはずだ。その勇気と行動力は率直に称賛されるべきだろう。

ところが、その記事を読んでいた私の視線は、すぐ右側の記事へ移った。そこには、91歳の女性を殺害した疑いで逮捕されたベトナム国籍の男についての記事が載っていた。
もちろん、両者には何の関係もない。一方は人命救助の話であり、もう一方は重大犯罪の話である。
善行と悪行。称賛されるべき行為と、厳しく非難されるべき行為。
共通しているのは「ベトナム国籍」という属性だけだ。
私はこの記事を見ながら、ベトナム人について考えたのではない。むしろ、報道において「国籍」という属性がどのように扱われているのかを考えてしまった。

救助の記事の見出しには「ベトナム人ら協力」とある。では、もし救助したのが日本人だったらどうだっただろうか。「日本人ら協力し救助」という見出しになっただろうか。おそらく、「近隣住民ら協力」「住民ら救助」あるいは単に「女性救助」といった表現になった可能性が高い。
もちろん、外国人労働者が地域社会の一員として活躍したことにはニュース価値がある。特定技能の在留資格で働く外国人が日本の地域に根付き、災害時には人命救助まで行った。その事実を伝える意味は大きい。だから、「ベトナム人」と書くこと自体がおかしいと言いたいわけではない。

ただ、そこで一つの疑問が浮かぶ。

なぜこのニュースでは国籍が重要な情報として扱われたのだろうか。
同じことは犯罪報道にも言える。重大事件では国籍が記されることが少なくない。すると読者の頭の中には、「ベトナム人ら協力し救助」と「ベトナム国籍の男」という二つの情報が並ぶことになる。
もちろん、理屈では分かっている。救助した人たちと容疑者は無関係だ。
しかし、人間は理屈だけで情報を処理しているわけではない私たちは無意識のうちに、共通のラベルを探す。そして「ベトナム人」という言葉だけが頭に残ることがある。
そこで、「ベトナム人は立派だ」という印象を持つ人もいれば、「ベトナム人は危険だ」という印象を持つ人もいる。
だが、どちらも正しくない。
五人の勇敢な行動によってベトナム人全体が評価されるべきではないし、一人の犯罪者によってベトナム人全体が否定されるべきでもない。それは当たり前のことだ。

しかし、その当たり前のことを私たちは案外忘れてしまう。

私は、新聞社を批判したいわけではない。二つの記事が隣接した紙面に配置されたことに意図があったのか、単なる偶然だったのかも分からない。
だが、読者として新聞を開いた時、「ベトナム人ら協力し救助」という大見出しのすぐ右側に、「ベトナム国籍の男」という記事が目に入ったのは事実だ。
その瞬間、私は自分自身の中にある認知のクセを意識させられた。いわゆる「無意識の認知」「無意識のラベリング」だ。
私たちはニュースを読む時、事実そのものだけでなく、そこに付けられた属性やラベルも同時に読んでいる。そして時として、そのラベルによって無関係な事柄まで結び付けてしまう。
今回の人命救助は、ベトナム人だから立派なのではない。立派な行動をした人たちが、たまたまベトナム人だったのである。そして今回の殺人事件も、ベトナム人だから起きたのではない。犯罪を犯したとされる人物が、たまたまベトナム人だったのである。
この二つは本来、別々に評価されるべき話だ。
だが、新聞を読んでいると、ときどき私たちは「国籍」というラベルによって、それらを無意識に結び付けてしまう

報道を読み解く力とは、事実を知る力だけではない。その事実がどのような言葉で語られ、どのような属性が付与され、どのように読者へ届けられているのかを考える力でもある。
ベトナム人たちが見せた勇気は、心から称賛したい。
殺人事件については、ベトナム人だろうが日本人だろうが許されるものではない。
だからこそ私は、この二つを「ベトナム人」という一つの言葉で雑に結び付けたくない。

そして同時に、私たち自身がそうしたラベルにどれほど影響を受けているのか、一度立ち止まって考えてみる必要があるのではないかと思う。

「秋田魁新報電子版」より

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