【今日のタブチ】映画『開戦前夜』の真の主役は誰か――宇治田でも東條英機でもない、佐藤浩市を動かしたプロデューサーの力量
映画『開戦前夜』を観た。昨年8月にNHKで放送された『NHKスペシャル シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜』に約40分の追加シーンを加えた完全版とのことで、大きな期待を持って劇場に足を運んだ。
結論から言えば、その期待に十分応えてくれる力作だった。その理由は大きく二つある。
一つ目は、主人公・宇治田を取り巻く家族模様が緻密に浮き彫りにされていたことだ。
二階堂ふみ氏や杉田雷麟氏の演技が実に素晴らしい。戦争への怒りや、どうしようもない悲しみを、わかりやすく感情を爆発させる形で表現するのではなく、内側に押し込めた感情として演じていた。その抑制された芝居によって、かえって家族が戦争という巨大な時代の流れに翻弄されていく姿が鮮烈に迫ってくる。
戦争映画というと、どうしても国家間の対立や戦場の悲惨さに目が向きがちだ。しかし本作は、それによって傷つけられる市井の人々や家族にきちんと目を向けている。その意味でも、この家族描写は作品に厚みを与える重要な要素だった。
二つ目は、東條英機の葛藤が描かれていたことだ。
この表現については、「東條英機はあんな人情的な人物ではない」とか、「歴史上の事実と違う」といった批判も見られる。また、佐藤浩市氏への配慮が働いているのではないかという声もある。
もちろん、佐藤氏ほどの大物俳優を起用する以上、制作側がさまざまな配慮を行うのは当然だろう。しかし、それは悪いことではない。むしろ俳優の特性や魅力を最大限に生かし、作品全体の完成度を高めることこそ演出であり、プロデュースの仕事である。私は、その種の批判にはあまり意味を感じない。
それよりも、ともすれば様々な誹りを受けかねない東條英機という難しい役柄を、見事に演じ切った佐藤氏の覚悟に拍手を送りたい。そして何より、佐藤氏を納得させ、あの東條像を構築し、作品世界に落とし込んだプロデューサー陣や石井裕也監督の力量を高く評価したい。
以上が作品内容に関する私の評価だが、今回の論考はここからが本筋である。
佐藤氏は直感で芝居を作るタイプの俳優だ。もちろん、それは優れた感性の裏返しでもある。しかし逆に言えば、その直感が作品の方向性と一致しなかった場合、説得は容易ではない。今回の東條英機像は、まさにそうした危うさを孕んでいた役柄だったのではないかと思う。
だからこそ、ここで重要になるのがプロデューサーの存在である。
直感を大切にしながらも細部に強いこだわりを持つ佐藤氏と向き合い、この作品における東條像について丁寧に説明し、理解と納得を得ながら演じてもらう。そこには相当な時間と労力が必要だったはずだ。
私はこの現場にいたわけではないので、実際にどのようなやり取りがあったのかはわからない。しかし、かつて佐藤氏と仕事をしたことがある者として言えば、今回のプロデューサの作業は決して簡単なものではなかったと思う。相当な根気と、緻密な調整能力、そして粘り強い説得力が求められたはずだ。
だからこそ、その難行をやり遂げ、新しい東條英機像を誕生させたこと自体が、本作の大きな功績であり、特筆に値すると思うのである。
近年、テレビ業界ではプロデューサーの統率能力が低下しているのではないかと感じる場面が少なくない。
そして、その構造的な欠陥がさまざまなトラブルを生み出しているようにも見える。先のフジテレビ『夫婦別姓刑事』を巡る問題も、その一例だった。
本来、プロデューサーには現場全体を見渡し、スタッフや俳優の間に生じる軋轢や対立を調整し、作品を完成へと導く責任がある。作品の成否だけでなく、現場そのものを成立させることもまた重要な仕事なのだ。
その点、本作『開戦前夜』における佐藤浩市氏の東條英機を見ていると、この作品の制作体制が極めて健全に機能していたことがうかがえる。
観客の目に映るのは俳優の演技である。しかし、その背後には俳優が安心して力を発揮できる環境を整えた人々がいる。
映画を観終えたあと、多くの人は東條英機像の是非を語るだろう。あるいは歴史解釈の問題について議論するかもしれない。
だが私は、その東條英機像を成立させた現場の統率力にこそ注目したい。
本作の成功は、内容面のクオリティを含めて、間違いなくプロデューサー陣の手柄である。
優れたプロデューサーがいなければ、この映画は決してあの形では完成しなかったはずだからである。
「映画.com」より


