【今日のタブチ】それは“進化”ではない、“退化”なのだ――スマホで赤ちゃんを注文する日、「すばらしい新世界」はもう始まっている
堤未果の『すばらしい新世界 スマホで赤ちゃんを注文する日』を読んだ。なかなか不気味だった。
尊厳死を選んだ叔母や母親などの家族の姿を通して、国際ジャーナリストの堤氏が、「命の在り方」や「尊厳」について問題提起した内容だ。100年前のディストピア小説『すばらしい新世界』と照らし合わせながら解説してゆくその手法が斬新だった。いかに、当時は「反理想郷」として描かれた世界が現実化しているかが手に取るようにわかるからだ。
若い肉体を求め、息子の血を輸血する大富豪。優秀な受精卵を売り買いし、赤ちゃんを選別する技術。亡くなったペットを700万円で復活させるビジネス。自分の性格を書き換える薬――。「生」「老」「死」を巡る投資家たちの狂騒ぶりが、これでもかというくらいに登場する。
「そこまでやるのか」というある種の“執念”には、“呆れ”を通り越して“哀れ”を感じずにはいられない。
「そんなことばかり考えていて、幸せなのか」と思ってしまう。
もちろん、なかには本当に病気などで困っている人たちを救う目的の技術もあるだろう。例えば、徐々に全身が麻痺してゆくALS患者が救われる「脳内チップ」がそうだ。しかし、障害者の救済として始まったこの技術は、いまやいつの間にか、健康な人の“脳の効率化”のために使われるようになっている。思考をテキスト変換してしまう脳ビジネスは60兆円市場だという。老いた脳を若返らせたり、アップグレードすることもできるというが、そんなふうに自分を“身の丈知らず”の自身へと変えてしまって、本当に幸せなのだろうか。
さらに、他人の五感をデータとして共有させてくれる技術まで登場しているというのだから、個人のアイデンティティや個性もあったものではない。
サムスン電子の最新鋭の冷蔵庫はAIのGeminiを搭載し、使う者の健康目標を管理するという。だが、落とし穴がある。その達成度によって生命保険料や住宅ローンの審査、婚活が不利になるどころか、さらには企業の採用スコアにまで影響を及ぼし始めている。いわば「自己をコントロールできない人間は怠け者だから失格」といったところだ。これでは、どちらが“使われている”のかわからない。
読んでいて気になったのは、こうした技術そのものではない。
その根底にある、人間を人間としてではなく、「価値を生み出す存在」として見る発想である。
高齢者が軽視されるようになったと言われて久しい。しかし、私には少し違って見える。社会は高齢者に価値を見出さなくなったのではない。高齢者を「付加価値化」できなくなったのである。
働ける高齢者は歓迎される。消費する高齢者も歓迎される。情報発信をし、経済的価値を生み出す高齢者も歓迎される。だが、その物差しから外れた途端、「支える側」ではなく「支えられる側」として扱われる。
かつて高齢者は、人生経験や知恵を継承する存在だった。ところが今は、生産性や効率主義という市場価値で語られることが多くなった。その発想が行き着いた先に、健康スコアや能力スコアによって人間を選別する社会があるのではないか。
「死」についてはもっとシビアだ。
カナダでは実際に、議会に「死が間近ではない患者にまで安楽死を拡大させ、医療・社会保障費を削減しよう」という報告書まで出されたという。医療・社会保障費削減は世界中の国々の課題だが、だからと言って「人を間引いて」いいわけがない。
「痛み」を通じてしか触れることがない、命への畏怖や尊厳はいったいどこへ行ってしまったのか。
高齢者が人口の4分の1を占めるこの国で、歳をとればとるほど肩身が狭い気持ちにさせる社会を、私たちはなぜ作ってしまったのか。
そして本書を読みながら、もう一つ考えさせられた。
本書に登場する技術は、どれも「進化」として語られている。より長く生きること。より健康になること。より賢くなること。より効率よく生きること。
だが、それは本当に進化なのだろうか。
老いることも、病むことも、死ぬことも、本来は人間の条件だったはずだ。人は不完全だからこそ助け合い、限界があるからこそ謙虚になり、死があるからこそ命を大切にしてきた。
もし、それらをすべて克服することだけが目的になるのなら、それは進化ではなく退化なのかもしれない。人間が人間であることを受け入れられなくなった退化である。
堤氏は本書の最後を、次のような文章で締めている。
「すばらしい新世界」の扉を内側から閉める鍵は、まだ私たちの手の中にある。
だが、本当にそうなのか。
私たちは鍵をなくしたのではない。効率や生産性、若さや利便性と引き換えに、自ら手放してしまったのではないか。
もうとっくに私たちは、その鍵を失っているのではないかと思わずにはいられない。


