【今日のタブチ】SNSの「共感」はどこまで許されるのか――港区殺人事件が突きつけた、“そこにいない加害者”の責任
東京都港区のIT関連会社役員が殺害され、同社取締役が逮捕された事件。ここまでは、企業内トラブルや人間関係のもつれといった、ある意味で既視感のある構図として受け止められる。
だが、私の関心が引っかかったのは別の一点だ。
警視庁は、SNSを通じて遺体の遺棄や解体方法を指南したとして、別の男性を死体遺棄ほう助の疑いで逮捕したという。
報道によれば、この男性はSNS上の投稿をきっかけに容疑者と接触し、その後、通信アプリを通じて継続的にやり取りを重ねていた。犯行後には、遺体の解体や運搬について具体的な方法を助言し、その内容に沿った行動が実際に取られたとみられている。また、やり取りの過程では金銭の授受も確認されており、単なる第三者の発言というより、一定の関与関係が形成されていたことがうかがえる。
これは、現場にいない人間が「言葉だけ」で犯罪に関与し得るという、従来の刑事事件とは質を異にする構図をはらんでいる。
SNSは、匿名性と即時性を背景に、軽い共感や不用意な発言が氾濫する場になっている。「いいね」や「そうだよね」といった一言は、これまで単なる相槌として処理されてきた。
しかし、その“軽さ”が、そのまま許されなくなりつつあるのではないか。
ここで私が強く感じたのは、「どこからが罪になるのか」という境界線の曖昧さだ。
現代のSNSでは、「尊厳死を認めてほしい」「生きていても意味がない」といった投稿が珍しくない。そして、それに対して「分かる」「その通りだ」と応じる流れも日常的に存在している。
仮に、その投稿者が「賛同してもらえた」と受け取り、自ら命を絶った場合、その共感の言葉は法的責任を問われるのか。
結論から言えば、ただちに犯罪になるわけではない。だが、完全に安全圏とも言い切れない。
刑法には「ほう助犯」という考え方があり、他人の犯罪を容易にする行為は処罰対象になる。今回の事件のように、遺体の処理方法といった具体的かつ実行性の高い情報を提供する行為は、犯罪の実現を心理的・実務的に容易にするものとして、「ほう助」に該当すると評価される可能性がある。
ここで問題となるのが「故意」の有無である。提供した情報が犯罪に利用される可能性を認識しながら、それでも構わないと容認していたと判断されれば、いわゆる未必の故意が認められ、ほう助犯が成立する余地は十分にある。
ただし、情報提供が直ちにほう助犯の成立につながるわけではない。正犯の犯行との間に、当該行為が実行を容易にしたといえる関係(因果的関連)が認められること、そして発言者に犯罪を容易にする認識・認容があったことが、具体的事情に即して判断されることになる。
問題は、その手前にあるグレーゾーンだ。
例えば、「つらいなら無理しなくていい」「楽になる方法もある」といった発言。この程度であっても、状況によっては自殺教唆や幇助と評価される余地がある。
特に、
・相手が明確に自殺願望を示している
・継続的なやり取りがある
・相手への影響力を自覚している
といった条件が重なれば、「共感」ではなく「後押し」と見なされる可能性が出てくる。
では、今回の事件はどうか。
すでに見たように、当該の人物はSNS上の投稿を契機に接触し、その後は継続的なやり取りを続け、犯行後には遺体の処理について具体的な助言を行っている。加えて、その助言が実際の行動に反映された可能性も指摘されている。
こうした事情を踏まえると、本件は単なる共感や曖昧な後押しといった水準を超えており、むしろ犯罪の実行を具体的に容易にする行為があったかどうかという段階で評価される事案であることが分かる。
つまり、SNS社会では、発言者の感覚と法的評価の間に無視できないズレが生じている。
このズレは軽視できない。
すべての共感が罪になる社会は明らかに行き過ぎだ。しかし同時に、「結果に結びつく言葉」は、もはや無責任では済まされない段階に入っている。
今回の事件が示しているのは、単なる猟奇性でも企業内トラブルでもない。
画面越しの発言であっても、それが犯罪の実行を容易にする以上、もはや単なる「言葉」としては扱われないという現実である。
画面の向こう側にいる相手との距離感が、そのまま責任の軽さを意味していた時代は、終わりつつあるのかもしれない。
何気なく押した一言が、誰かの行動を決定づける可能性がある。
軽さと結果の重さがかみ合わない、このギャップをどう受け止めるのか。
問われているのは、制度の問題である以前に、私たち自身の認識なのだ。
「TBS NEWS DIG」より


