【今日のタブチ】文豪・森鴎外は“キラキラネーム元祖”だった──「パッパ」と呼ばれた父の意外な素顔
今日、新聞記事で「森鴎外が実は“誉めて育てる父親”だった」という話に触れ、思わず読み入った。軍医総監としての厳格なイメージとはまるで違う、家の中で子どもから“パッパ”と呼ばれる鴎外の姿。そのギャップに強い興味を覚え、なぜ彼がそこまで子に深く寄り添ったのか、そして溺愛された子どもたちはどんな大人になったのか――そこまで知りたくなり、記事に書かれていなかった部分を含めて調べてみることにした。
軍服のボタンを光らせ、サーベルをぶら下げ、立派なカイゼル髭を誇る写真の森鴎外。
教科書などに載っていたその姿を思い浮かべるたび、私は、家の中で子どもたちから「パッパ」と呼ばれていた事実に驚きを覚える。鴎外は、明治的な家父長の象徴に見えて、家では徹底して“誉めて育てる父親”だった。溺愛のエピソードは枚挙に暇がない。
奈良への長期出張で別れる際に泣いた9歳の杏奴にキューピー人形を買い与え、翌日には「キューピーはまだこわれませんか?」と気遣う葉書を送ったという。軍医総監の厳めしい表情の裏側に、子の心へ視線を下げる柔らかな父の時間が確かに存在していた。
鴎外の育児観はさらに興味深い。
妻への手紙には、「小さい頃の教育はむつかしくない。大体は自然に任せておけばいい」「子どもが悪気なくやったことを罰してはならぬ」「何遍でも問えば一々返事をしてやるのが親の務めだ」と書かれている。子を玩具のように扱ってはならないという指摘は、親子の対話を惜しまず注ぎ込むという強い意志の表れで、これは現代で言う非認知能力の育成にも重なる発想だと感じる。
衛生面では過保護と言えるほど徹底していた。細菌学の知識をいち早く身につけていた鴎外は、刺身など生ものを口にさせず、果物も煮て食べさせた。のちの時代に見られる潔癖気味な傾向を思い浮かべるが、当時の衛生環境を考えると、この“極端さ”はむしろ先進だったと言えるのかもしれない。
異国文化にも柔軟で、舶来の菓子を買い与えたり、手づくりのドイツ語教材を与えたりと、子の世界に外国の空気を積極的に持ち込んでいた。未知なるものを子どもの生活に置くことを厭わなかったという点でも、鴎外は当時として非常に先見的な父親だった。
名付けのセンスはさらに象徴的で、今で言う“キラキラネームの元祖”とされることすらある。だがその動機は実用的だ。自身の本名「林太郎」が海外で発音してもらえず苦労した経験から、子どもには外国人にも通じる名をつけた。於菟(Otto)、茉莉(Mary)、杏奴(Anne)、不律(Fritz)、類(Luis)。名前という“インターフェース”に世界性を仕込んだと言える。
そして、最も関心があった問いに向き合う。
「溺愛されて育った子どもたちは、どんな大人になったのか」。
長男・於菟は、日本を代表する解剖学者へと成長した。台北帝国大学医学部教授、東邦大学医学部教授・学部長を務め、科学者としての道を極めた。さらに、父についての最初の本格回想記を著し、鴎外像の形成に大きな役割を果たした。
長女・茉莉は、遅咲きのエッセイストとして開花した。『父の帽子』が日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、優雅な美意識と独自の語り口で読者を魅了した人物だ。“子どもがそのまま大きくなったよう”と評されたが、その感性は幼少期の親密な時間と無縁ではないと感じる。
次女・杏奴は、父の晩年を記した『晩年の父』を残した随筆家で、家族の記憶を社会へとひらく仕事を担った。父の研究に最も熱心だったとも言われる。
三男・類は、美術の道から筆へと転じ、『鴎外の子供たち』で家の内側を率直に描いた。その“率直さ”は姉との絶縁を招くほどで、家族を書くという行為の重さを体現していた。
こうして見ていくと、鴎外の子どもたちは総じて、与えられた好奇心と承認をそれぞれの表現領域で増幅し、医学・文学・芸術の分野で“作り手の人生”を歩んだことがわかる。その系譜は孫・ひ孫へと続き、於菟の五人の息子たちは医学・理学・工学・動物学・英文学へと進み、ひ孫世代には環境生命医学を専門とする森千里(千葉大学教授)などが登場する。誉められ、好奇心を支えられた子の“その後”が、長い時間軸を越えて実った例だと言える。
では、鴎外の「誉めて育てる」とは何だったのか。
彼は“6割ほめて4割けなすのが人材をつくる”と語った。悪気のない行為は罰さず、子の質問には無限に応答する。叱責より説明。親の時間を惜しまないことで子の世界は広がるという考え方は、現代の成長マインドセットやフィードバック論と自然に重なる。
興味深いのは、鴎外の“過保護な衛生”と“開放的な文化導入”が矛盾なく同居していたことだ。危険は排除しながら未知は歓迎する。この二層構造こそ、子を“守りながら遠くへ送り出す”育児の実践だったのだろう。
名付けも教育の一部だった。世界で通用する名前を与え、将来の摩擦を減らす。名前は一生を通じて使う“入り口”であり、鴎外はそこに教育の起点を置いた。
“パッパ”と呼ばれた父の膝の上から始まった物語。その後の子どもたちの人生は、たしかに上々だった。
森鴎外の眼差しは、時代のはるか先を見つめていたのだ。
右から於菟44歳、茉莉31歳(後列)、杏奴25歳、類23歳
「婦人之友」28巻3号 1934年3月より


