【今日のタブチ】アースデーに考える――スマホの「カエドキ」は、いったい誰が決めるのか?
今日4月22日は「アースデー」だ。
地球の日と名付けられたEarth Dayは、地球環境を守るための意識を高め、行動を起こす世界規模の記念日である。1970年にアメリカで始まり、現在は175カ国以上、約10億人が参加し、宗教・政党・国籍を超えて多様な環境アクションが世界中で行われる。
そして、この日が近づくたびに、「環境について考えよう」という言葉が繰り返される。
だが私は長いあいだ、この呼びかけにどこか距離を感じてきた。環境問題は常に正しく、常に大きく、そしてあまりに抽象的だからだ。どうも、自分の日常と、どこでどう結びついているのかが見えにくい。
そんな感覚を抱えたまま目に入ったのが、新聞1面の見出し「スマホ使い捨ての果てに」だった。
アフリカ最大級の電子廃棄物処理場。健康被害。
内容そのものは決して新しくない。それでも今回は、読み飛ばすことができなかった。
違和感の正体を確かめるように、私は、その記事で紹介されていたドキュメンタリー映像『DANDORA』を視聴した。
まず、この映像を撮影した作り手たちに敬意を表したいと思った。
フィリピン・マニラの「スモーキーマウンテン」がそうであったように、巨大な廃棄物処理場の周辺には、往々にして利権が絡み、外部の視線や記録を快く思わない人間もいる。カメラを向ける行為そのものが、身の危険を伴った可能性は十分にある。
そのリスクを引き受けたうえで、なお映像として残そうとしたこと。その一点だけでも、この作品を見る視線は変わる。
この『DANDORA』は、ケニア・ナイロビ郊外のダンドラ地区を舞台にしたドキュメンタリーだ。ダンドラには、アフリカ最大級とされる廃棄物処理場があり、世界各地から集まる廃棄物、とりわけ電子廃棄物が日々投棄されている。
スマートフォン、パソコン、テレビ。
先進国で役目を終えたテック製品が、再利用や中古品という名目で流入し、その多くは実際には再生されることなく、野外で解体される。廃棄された電子機器のうち、実際に再生・再利用されるのは、全体のわずか1%にすぎない。
処理場はスラムと隣り合わせにあり、“ウェイストピッカー”と呼ばれる人たちが、有毒な電子廃棄物を素手で扱う。直訳すれば「廃棄物を拾う人」だが、日本語の「ゴミ拾い」では、この労働の切実さも、構造上の位置も、うまく言い表せない。
彼らへの鉛や水銀などの有害物質による健康被害、とりわけ子どもや妊婦への影響が、映像の中で静かに積み重ねられていく。
この作品が特徴的なのは、悲惨さを強調することよりも、「なぜこの場所に電子廃棄物が集まるのか」という構造を、淡々と示している点だ。
そして後半では、廃棄物を再生し、新たな製品へと組み替えようとする“WEEEセンター”の取り組みも映し出されている。
『DANDORA』の最初には、こんなナレーションが流れる。
「買い替える理由は壊れたからではなく、多くの場合、ちょっと古くなったから。それだけの理由だ」
「使い捨てを前提とした社会では、より早く、頻繁に買い替えることを推奨される」
「旧型は時代遅れだと広告スローガンが煽る」
私は、このナレーションを聞いて、NTTドコモの「カエドキプログラム」を思い出した。
最新式のスマホが手に入る。しかも、これだけお得に。
スマホは壊れていない。まだ使える。それでも、OSの更新、サポート期限、下取り価格、
そして「そろそろ替えどきですね」という空気が、静かに、しかし確実に判断を急かしてくる。
スマホの「カエドキ」は、いったい誰が決めているのか。
表向きの答えは明快だ。消費者自身、ということになっている。
だが、本当にそうだろうか。
2年での買い替えを前提に、負担を軽く見せるこの仕組みは、選択肢を広げているようでいて、実際には判断のテンポそのものを、あらかじめ決めてはいないか。
「流行遅れ」
「サポート切れ」
こうした言葉は、誰の責任でもない顔で、買い替えを自然な行為へと変えてしまう。
だが、その軽やかな言葉の裏側で、電子廃棄物は確実に別の場所へと押し出されているのだ。
『DANDORA』の後半で描かれていた光景は、私を別の意味で戸惑わせた。
電子廃棄物を解体し、部品を再生し、新しい製品へと組み替えていく現場。そこには、悲惨さ以上に、技術と創意があった。一瞬、SF映画の未来世界を観ているような錯覚にすら陥った。
とりわけ印象的だったのは、WEEEセンターの姿勢だ。違法な行為を力で抑え込むのではない。取り締まるのではなく、後押しする。
修理すること、再生することを学びに変え、そこから次世代のテック起業家が生まれる可能性を残す。
未来とは、必ずしも新品を買うことの延長線上にだけあるのではない。
『DANDORA』が示していたのは、「使い続ける」「直す」「つくり替える」ことの先に開かれる、もう一つの未来だった。
そう考えると、アースデーという日は、単に「地球にやさしくしよう」と唱える日ではなく、自分の生活と、遠くの現場とのあいだにある距離を、一度、意識的に縮めるための日なのだと思えてくる。
また、地球のことを考える前に、その自分の判断がどこから来ているのかを問い返す日にするべきなのではないだろうか。
「PR TIMES」HPより


