【今日のタブチ】BGM使用料が“実演家”にも?――『喝采』の歌声に1円も支払われなかった異常な国、日本
昨日、ちあきなおみ氏のことを書いた。稲熊均氏の書籍に触れ、『喝采』という楽曲が持つ圧倒的な表現力に改めて向き合った。あの歌声は、単なる「歌」ではない。感情の劇であり、人生そのものだ。
その余韻が残る中で、今日、偶然にもひとつのニュースが目に入った。
政府が、著作権法改正案を閣議決定したという。内容はこうだ――飲食店や商業施設などで流れるBGMの使用料について、これまで作詞・作曲家にしか分配されてこなかったものを、歌手や演奏家といった「実演家」にも支払う仕組みを整える、というものだ。
率直に言って、これは素晴らしい決定だと思う。
しかし同時に、こうも思う。
なぜいままで、こんな当たり前のことすら認められてこなかったのか?
制度の説明を少しだけしておくと、日本ではこれまで、店内でCD音源や配信曲を流した場合、その使用料はJASRACなどを通じて作詞家・作曲家に支払われてきた。しかし、その楽曲を実際に歌っている歌手や演奏しているミュージシャンには、一円も支払われていなかった。
これは冷静に考えると、かなり歪な構造である。
楽曲は当然、作詞・作曲だけでは成立しない。そこに命を吹き込む「声」や「演奏」があって初めて、私たちが耳にする音楽になる。にもかかわらず、その音楽が店で流れ、空間を作り、利益を生んでいたとしても、その“声の主”には何も還元されない。
そんな状態が、長年放置されてきた。
しかも驚くべきことに、この種の権利は、世界ではすでに広く認められている。実際、同様の制度は140カ国以上で導入されており、日本は長らくその流れから取り残されていた。
言い換えれば、日本は音楽の価値を正当に分配するという点で、数十年単位で遅れていたということになる。
ここで、私はある出来事を思い出す。
昔、ある歌手の方とカラオケに行ったことがある。その人の持ち歌を、皆で盛り上がりながら歌った。本人も楽しそうに笑っていた。
その帰り際、その歌手がぽろっとこう言った。
「こうやって楽しく歌ってもらえるのは嬉しいんです。でも、この度に、曲を作った人たちにはお金が入るけど、私には1円も入らないんですよね……複雑な気持ちです」
その一言が、妙に忘れられない。
制度としてそうなっている以上、それは“仕方がない”ことで片づけられてきたのだろう。しかし、その違和感は確かに存在していた。そして、おそらく多くの関係者が気づいていながら、長い間そのままにされてきた問題だったのだ。
では、なぜ今になって、このような改正が動き出したのか。
ここは冷静に見ておいた方がいい。
今回の法改正の背景には、J-POPやアニメ音楽の世界的な広がりがあると指摘されている。日本の楽曲が海外で使われる機会が増え、その際に「歌手にお金が分配されないのはおかしいのではないか」という声が国際的に高まっていた。
さらに重要なのは、日本側の事情だ。
著作権の分配は、基本的に「相互主義」で成り立っている。つまり、自国で認めていない権利については、他国でも認められない。そのため、日本にこの制度がなかったことで、日本の歌手は海外で音楽が使われても対価を受け取れない状態が続いていた。
裏返せば、これまで日本がこの制度を導入してこなかったのは、もしこのことを認めてしまうと、外国の楽曲にも国内で使用料を払わざるを得なくなるからだ。
つまり今回の改正は、「歌手にも権利を認めるべきだ」という思想の自然な到達点というよりも、国際的な整合性や産業的な利益、そしてある種の“体面”を整えるために“仕方がなく”進められている側面があると私は観ている。
もちろん、それでもなお今回の改正は前進だ。しかし見逃してはならないのは、日本の音楽制度の根底にある発想そのものが、本当に変わっているのかという点だ。
音楽とは何か。
歌とは何か。
『喝采』を思い出すたびに、私はその問いに突き当たる。あの歌声は、単なる「素材」ではない。数値化できる“コンテンツ”でもない。
あれは明らかに、人間の表現そのものだ。
もしそうであるならば、その表現に対して正当に対価が支払われるというのは、本来、議論の余地すらないはずの前提だったのではないのか。
今回の法改正は、一歩である。しかし、本質的に問われるべきなのは、「なぜ今までそうではなかったのか」ということだ。
そしてその問いに向き合わない限り、日本はまた別の領域で同じ遅れを繰り返すだろう。
そんなことを考えながら、昨日と同じように『喝采』を思い浮かべる。
やはり、あの歌は凄い。
そして、その歌声には、正当に報われるべき価値がある。
「朝日新聞デジタル」より


