【今日のタブチ】桜美林大学の授業と「食べられる皿」――“仕方ない”を変えてしまう若者の発想力
若者の発想力には、毎回驚かされる。
私は「ドキュメンタリー論」などの授業で、学生に企画書を書かせ、プレゼンをしてもらっている。その中には、「よくそんなことを思いつくなぁ」と感心させられる企画が必ず混じってくる。
先日の授業では、「スマホ依存が強い若者に3日間スマホを禁止してみたらどうなるか」という、観察型ドキュメンタリーの提案があった。
モーガン・スパーロック監督が自らを実験台にした映画『スーパーサイズ・ミー』を想起させる内容だ。1日3食マクドナルドを食べ続けた結果、約11kgの体重増加、深刻な肝機能障害、さらには抑うつ状態に至る過程が克明に描かれていた、あの作品である。
一日のほとんどスマホを手放せないような人間が、それを断たれたとき、身体や心理にどのような変化が生じるのか。禁断症状のようなものが出るのか。極めて興味深い切り口だ。
こうした企画に共通するのは、テーマの大きさではない。「条件を極端に振ることで、見えにくいものを可視化する」という発想の取り方にある。
そして今日の新聞にも、同じ種類の力強さを感じさせるトピックがあった。
北海道大学の学生が、「食べられる皿」を開発したという。脱脂粉乳とおからに、ペースト状にした道産野菜を混ぜて生地を作り、皿の形にして焼き上げたものだ。
さらに印象的なのは、その発想に至る経緯である。入学後、道内各地の農業現場を訪れた際、規格外野菜は形が不揃いで輸送しにくく、結果として廃棄せざるを得ない現状を知ったという。
ここまでは、多くの人が「もったいない」と感じる。しかし、そこから「皿にしてしまえばいい」と飛躍するところが決定的に違う。
売る方法を考えるのではなく、用途そのものを組み替えてしまう。この思考の跳躍に、発想の核があるのだ。
こうした例は、決して珍しいものではない。
たとえば、コンビニで当たり前になっているおにぎりのフィルム包装も、元をたどれば「手を汚さずに食べられないか」「海苔の食感を保てないか」という素朴な不満から出発している。
また、シェアサイクルのような仕組みも、自分たちの移動の不便さに対する問題意識から始まり、それが都市インフラへと拡張されていった。
食品ロスを減らすためのマッチングアプリも同じだ。「売れ残るのは仕方ない」と受け入れるのではなく、「その前に循環させられないか」という発想から生まれている。
いずれも、出発点は些細だ。
「不便だ」「無駄だ」と感じたところで止めるか、「なら変えられないか」と一歩踏み込むか。
その違いが、そのまま発想の幅を決める。
大事なのは、出発点だ。知識の問題ではない。経験の多寡でもない。「当たり前」をそのまま通過するか、引っかかるか。その差だけだ。
大人は多くの場合、「仕方がない」という地点で思考を止める。しかし学生は、その先にもう一歩踏み込む。「本当に動かせないのか」と。もちろん、すべてが実現するわけではない。粗いものも多いし、現実条件を無視している企画も少なくない。
それでも、その中のいくつかは社会に刺さり、やがて当たり前として定着していく。
だからこそ、授業で企画を聞くたびに思う。
「そんなこと、よく思いつくなぁ」
その驚きの裏には、「自分はもうその発想の回路を閉じてしまっているのではないか」という感覚が、どこかに残る。
学んでいるのは、むしろこちらのほうかもしれない。
「for Good!」HPより


