【今日のタブチ】「映像の可能性」という言葉を考える――私が映像の世界に進んだ“不純な”理由

最近、とみに考えることがある。
「映像の力」とは何なのか
そして、「私はどうして映像の世界に進んだのか」ということだ。
この2つは、全然違う問いのように思えるが、実は地続きだ。
私は「映像の力」を確認するために、映像の世界に進んだのではないかと思うことが多いからである。

「映像の力」は「映像の可能性」とも言い換えることができる。テレビがメディアからオールドメディアになり、“一強”の時代は終焉を迎え、誰もが手軽に映像を作ったり発信したりすることができるようになった今、その映像には何の意味があるのか。
単に娯楽のためなのか、それとも別の役割があるとしたら、それは何なのかを、テレビ業界を辞めた今だからこそ、とてもよく考えるようになった。

そして、「私はどうして映像の世界に進んだのか」という問いだが、こう思うわけは、私にはどうしてもテレビ業界に進みたいという確固たる意志があったように思えないからだ。
大学を卒業するとき、法学部だった私はまず「せっかくだから、法律家にでもなろう」というお気軽かつ大それた理由で、司法試験を受けた。だが、箸にも棒にもかからなかった。あまりの自分の実力のなさに愕然とした私は、「なんだか楽しそうだ」とか「毎日同じ仕事をするのは嫌だな」という不謹慎極まりない動機でテレビ局を受験した。そしてたまたま受かったテレビ東京に入社した。

そんな不純なきっかけで映像の世界に足を踏み入れることになった私だが、最近、自分は映像の力や可能性を確認するために、結果としてその場所に流れ着いたのではないかと感じることが多くなった。

では、映像の力や可能性を確認するとは具体的どういうことなのか。

先日私は、東京大学の大塚類教授からある“お声かけ”をいただいた。それは、東日本大震災と福島第一原発事故で深刻な被害を受けた双葉町の子どもたちに、映像のワークショップをできないかというものだった。
一方、先日、東京都北区の滝野川第三小学校では、児童らがけがをする火事に見舞われるという事件があった。
双葉町の子どもたちは、長く避難と分散した環境での教育を余儀なくされてきたという。そして滝野川第三小学校の子どもたちについても、火災の記憶が影響を与えているとも聞く。
心が痛む。そして、何かできないかと思う。
大塚教授が言うように、映像ワークショップによって、子どもたちの不安で曇った心が少しでも晴れたなら、それは「映像の力」と言えるのではないか。

例えば、障害者の人たちや生きることに悩みを抱えた人たち、何かの事件や災害によって心に不安を抱えた人たち、そういう人たちにどういう効果を与えることができるのか。それが映像の可能性を探ることにつながるのではないだろうか。
そういう思いが、日々強まっている。

「映像の可能性」というと、どうしてもCGや編集技術の進化といったテクニカルな話に引き寄せられがちだ。
CGや編集技術、AIによって映像のクオリティが格段に進化しているのは事実である。
だが、私が考えているのは、そうした“作り方の問題”ではなく、映像が人の心の状態そのものにどう作用するのかという点である。

そんな私の探求は、まだ答えの出ないまま続いている。

「TACT Tsuruoka」HPより

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