【今日のタブチ】ドリフを育てた井澤会長の訃報に思う…テレビは本当に“オワコン”になったのか
イザワオフィスの井澤健一郎会長の訃報に接し、不思議な喪失感を覚えた。
個人的に親しいからではない。もちろん、ドリフターズを育て、日本のテレビ史に大きな足跡を残した人物だからだ。だが、私が感じた寂しさは、それだけではない。
私はドリフと仕事をしたことはない。しかし、『8時だョ!全員集合』を毎週楽しみに見ていた世代である。
気がつけば、田辺プロダクションの田邊昭知氏は鬼籍に入り、ジャニー喜多川氏もこの世を去った。バーニングプロダクションも世代交代が進み、昭和から平成の芸能界を形作ってきた大物たちが次々と表舞台を去っている。
そんな状況を見ると、「一つの時代が終わった」と感じる人も多いだろう。だが、私が隔世の念を抱いたのは、芸能界の勢力図が塗り替わったからではない。
私が思ったのは、テレビが文化だった時代を知る人たちが少しずついなくなっているのではないかということだった。
2019年、インターネット広告費がテレビメディア広告費を上回った。以降、「テレビはオワコンだ」という言葉が頻繁に聞かれるようになった。
しかし、私はこの「オワコン論」には違和感を持っている。もしテレビが衰退したのだとしても、それはコンテンツが面白くなくなったからではないと思うからだ。ドラマもバラエティーもドキュメンタリーも、いまなお優れた作品は数多く存在する。
では、何が変わったのか。
それは社会の側である。核家族化が進み、人々の生活スタイルは多様化した。スマートフォンの登場によって、一人ひとりが別々のコンテンツを楽しむ時代になった。
私が子どものころは違った。土曜日の夜8時になれば、家族全員がお茶の間に集まった。そして同じテレビを見て、同じ場面で笑った。ドリフは、その象徴だった。
父も笑う。母も笑う。子どもも笑う。世代の異なる人々が同じ時間を共有する空間がそこにはあった。
いまで言えば「同時視聴」だが、当時はそれが全国規模で行われていたのである。
では、いまはどうだろう。
父親はYouTube。母親は配信ドラマ。子どもはTikTok。誰もが自分の好みに応じてコンテンツを選び、自分だけの時間を過ごしている。
それ自体は悪いことではない。むしろ、多様性を反映した自然な社会の変化だろう。
ただ、その結果として失われたものもある。
家族が同じ時間を共有し、同じ話題で盛り上がる文化である。
だから私は、テレビが負けた相手はインターネットではないと思っている。
テレビが直面したのは、個人化された社会そのものだったのではないか。そう考えると、井澤会長の功績も違って見えてくる。
ドリフターズという人気グループを育てたことだけではない。『8時だョ!全員集合』を通じて、日本中の家庭に「お茶の間」という文化を定着させたことだ。
テレビ番組を作ったのではない。テレビを文化へと昇華させる一翼を担ったのである。
では、いまの芸能界はどうだろう。
優れたタレントを発掘することはできる。ヒット作品を生み出すこともできる。だが、人々の生活習慣そのものを変えたり、日本人の共通体験を作ったりするような文化的な力を持ち得るだろうか。
YouTubeにもNetflixにも素晴らしい作品はある。しかし、かつて土曜の夜になると家族全員が同じ番組を見て笑ったような文化は、なかなか生まれにくい。
井澤会長の訃報を知り、私が寂しく感じたのは、一人の芸能プロデューサーを失ったからではない。
テレビがまだ単なるメディアではなく、日本人の生活の一部として存在していた時代が、またひとつ遠くなったような気がしたからである。
Voicyでもこの話題をお話ししています!
#035 芸能界のドンの訃報で考える「オワコン論」ーわが国が失った放送文化
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https://voicy.jp/channel/1027821/8163547
「Yahoo!ニュース」より
右から3人目が井澤氏



