【今日のタブチ】なぜアメリカには貸して日本には貸さないのか――四川省で思い知った“パンダ外交”の本当の狙い

米中首脳会談に合わせて、中国の習近平国家主席がアメリカへの新たなパンダ貸与を進める考えを示したというニュースを目にした。パンダは単なる動物ではない。中国外交において、長年にわたり重要な役割を果たしてきた「ソフトパワー」の象徴である。
現在、中国から海外に貸与されているパンダはアメリカをはじめ、スペイン、オーストリア、ドイツ、ベルギー、ロシア、カタール、シンガポール、韓国など複数の国に及ぶ。パンダの貸与先は、その時々の中国との関係性を映し出す鏡とも言われている。パンダは今もなお、中国外交における象徴的な存在であり続けている。

その一方で、日本からは今年、上野動物園のシャオシャオとレイレイが中国へ返還された。これにより、日本は1972年の日中国交正常化以降、初めて国内にジャイアントパンダが一頭もいない状態となった。これはどういう意味を表しているのか。
もちろん、契約期間満了という理由はある。しかし、アメリカには新たな貸与の動きがあり、日本にはない。この事実を前にすると、「パンダは動物である以前に外交資産なのだ」という現実を改めて感じざるを得ない。実際、日本は1972年の日中国交正常化以来初めてパンダが一頭もいない国になった一方で、アメリカには新たな貸与が進んでいる。中国がパンダを国家間関係のメッセージとして使っていることは明らかだろう。
中国にとってパンダは、世界で他国が容易に真似できない国家資源である。軍事力や経済力が国家のハードパワーだとすれば、パンダはソフトパワーの代表格だ。武器は相手国に恐怖を与える。しかしパンダは相手国の国民に好意を抱かせる。その効果は決して小さくない。そう考えるようになった背景には、私自身の体験がある。

私は2000年ごろ、ドキュメンタリー番組『暴れ龍・揚子江』の取材で、四川省臥龍自然保護区にある「中国ジャイアントパンダ保護研究センター(臥龍基地)」を訪れたことがある。私が訪れた臥龍基地は、その後の2008年四川大地震で大きな被害を受けた。現在は同じ臥龍自然保護区内の神樹坪基地が研究・繁殖の中心となり、一般公開も行われている。
当時、一般の観光客もパンダを見学することはできたが、繁殖研究がおこなわれているエリアは別だった。私は取材ということで特別に研究施設の内部にも入ることを許された。そこでは白衣を着た研究員たちが、スポイトや検査器具を手に真剣な表情で作業を続けていた。巨大な研究設備、厳重な管理体制、そして研究員たちの熱気を目の当たりにしながら、私は「これは単なる動物園や保護施設ではない」と感じた。
当時の私は長江流域の自然と人々の暮らしを取材しているつもりだった。しかし今振り返ると、あそこで見ていたのは単なる動物保護ではない。後に中国外交を支えることになる巨大なソフトパワーの生産現場でもあったのである。パンダ繁殖は国家プロジェクトなのだ。
中国はパンダの繁殖技術向上に莫大な資源を投入してきた。もちろん絶滅危惧種の保護という目的もある。しかし、同時に、外交資産としての価値を維持する意味もあるという現実をまざまざと見せつけられた経験だった。

取材中、興味深い体験もした。
「パンダと記念写真を撮らせてあげよう」
そう言われて案内された場所で、私はパンダに後ろから抱きつかれる格好や肩を組んだりして、写真を撮った。当時はそうした撮影も行われていたが、動物福祉や安全管理の考え方が大きく変わった現在では、同じような体験は簡単にはできなくなっている。もちろん安全対策は講じられていた。写真には写らない位置で、飼育員がパンダの体と前足をしっかり押さえていた。
それでも、私の背中にのしかかったパンダの重みは驚くほどだった。生暖かく生臭いパンダの息が私の顔に降りかかる。そして何より印象的だったのは、その前足だった。
目の前に差し出された腕には鋭い鉤爪がついていた。白黒の愛らしい姿からは想像できない迫力である。
私はその瞬間、「パンダは熊なのだ」と実感した。もしこの巨体に本気で押し倒され、あの爪で一撃を加えられたら、人間などひとたまりもないだろう。
日本人はパンダを見ると「かわいい」と言う。私もそう思う。しかし、そのかわいらしさの向こう側にある野生動物としての本性を忘れてはならない。そのことを強く感じたのは、研究所周辺の農村で取材した時だった。
研究所の周辺には野生のパンダが生息している。農民たちに話を聞くと、彼らは必ずしもパンダを歓迎してはいなかった。
畑を荒らされる。農作物に被害が出る。家畜が襲われることもある。彼らにとってパンダは「友好の使者」でも「国民的アイドル」でもなかった。生活を脅かす野生動物なのである。
そのとき私は奇妙な落差を感じた。北京や東京では外交の象徴として語られるパンダが、現地の農民にとっては迷惑な存在でしかない。同じ動物なのに、立場や状況が違えば、その見え方はまったく異なるのだ。

近年、日本では熊による人的被害が相次ぎ、社会問題になっている。ニュースで熊が出てくるたび、私は四川省で出会ったパンダを思い出す。
熊は危険だと言う。パンダはかわいいと言う。だが、生物学的にはどちらもクマ科の大型獣である。
私たちは本当に動物そのものを見ているのだろうか。むしろ、自分たちが動物に貼り付けたイメージを見ているだけではないのか。
私はパンダ外交そのものを否定するつもりはない。国と国との関係を和らげる役割があるのも事実だろう。しかし、外交の舞台で脚光を浴びるパンダの背後には、国家戦略があり、繁殖研究があり、そして農民たちの日常がある。白黒の愛らしい姿だけを見ていては、その全体像は見えてこない。
アメリカに貸し、日本には貸さない。そこにどんな外交的メッセージが込められているのか。そして私たちは、そのパンダを通じて何を見ているのか。
私が四川省で出会った農民たちは、パンダを「国家の宝」とは見ていなかった。畑を荒らす野生動物として見ていた。東京では歓声を浴びるパンダが、四川の山村では厄介者になる。その落差こそが、パンダという動物の本当の姿なのかもしれない。

パンダ外交を考えることは、中国という国を考えることでもあり、私たちが動物や国家をどのようなイメージで見ているのかを問い直すことでもあるのだ。

☛Voicyでは、パンダ研究所を訪れたときの経験を詳しくお話ししています。ぜひお聞きください!
#060 パンダに抱きつかれた日――四川省の研究所で私が思い知った「パンダは実は怖い」
https://voicy.jp/channel/1027821/8251291

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