【今日のタブチ】消えるはずだった山の上ホテルはなぜ残ったのか――菅原文太・文子夫妻との思い出
「著名人御用達」「文化人のホテル」などと呼ばれ、多くの人に親しまれてきた神田駿河台の山の上ホテルが、残されることになった。さまざまな紆余曲折を経て、最終的には「山の上ホテル」の名を継承し、「山の上ホテル 東京」として2027年に再出発することが決まった。
山の上ホテルは、1937年に建てられたアールデコ様式の建築で、設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ。曲線を生かした外観と、過剰な装飾に頼らない上質な意匠が特徴で、日本に残る近代建築の中でも際立った存在だ。神田駿河台の高台という立地もあり、都心にありながら静謐な空気をまとっている。
内装もまた外観と同様にアールデコの美意識で統一されている。ロビーに一歩足を踏み入れると、幾何学模様のテラゾ床や抑制の効いた照明、曲線を帯びた階段などが静かに調和し、過剰ではないのに強い印象を残す空間が広がる。装飾は決して“華美”に流れず、むしろ素材の質感と陰影で魅せる設えだ。
客室も同様に、クラシカルで落ち着いた設えが貫かれている。漆喰と木の質感が調和した空間に、簡素だが美意識の行き届いた家具やライティングデスクが配され、滞在する者に静かな集中と安らぎを与える。いわゆるラグジュアリーホテルの豪華さとは異なる、「思索のための部屋」とでも言うべき空気がある。
また、館内の細部にまで当初の設計思想が息づいており、床や階段、照明、タイルに至るまでが一体の意匠として組み上げられている。その統一感こそが、このホテルの空間に独特の品格を与えている。
このホテルは単なる宿泊施設ではない。作品の舞台として描かれることも少なくなく、たとえば柚木麻子の小説『私にふさわしいホテル』は、この山の上ホテルを物語の中核に据えた代表例だ。不遇な新人作家がこのホテルに滞在し、文壇の権威と駆け引きを繰り広げる物語で、実在の空間そのものが「文学の舞台」として機能している。
さらに興味深いのは、このホテルが単に作品の“背景”であるにとどまらず、実際に多くの作家がここで執筆を行ってきた場所であるという点だ。池波正太郎、吉行淳之介、三島由紀夫、井上靖といった作家たちがここに滞在し、執筆の場ともなった。川端康成も定宿のひとつとしていたことが知られている。出版社の集まる神田・神保町に近い立地もあり、編集者が作家を“缶詰め”にして原稿を書かせる場として使われ、数多くの作品がここから生まれてきた。
つまり山の上ホテルは、「舞台として描かれる場所」であると同時に、「作品そのものが生まれる現場」でもあった。現実とフィクションが地続きになっている、きわめて稀有な空間だったのである。
また、出版関係者や編集者、映画関係者たちの打ち合わせの場としても機能し、数多くの企画や作品がここから生まれていった。単なるホテルではなく、「文化の交差点」と呼ぶにふさわしい場所だった。
こういった人類の遺産とも言うべき空間が取り壊されずに残るという決断は、素直に“偉業”として評価したい。だが、そこに至る道のりは決して平坦ではなかった。
老朽化や経営環境の変化を背景に、営業終了とともに建物の取り壊しや再開発の話が持ち上がった。都心の一等地という条件は、むしろ保存にとっては逆風だったと言える。実際にマンション建設などの案が取り沙汰された時期もあった。
しかし、その文化的価値を惜しむ声は根強く、保存を求める動きが広がった。最終的に隣接する明治大学が土地と建物を取得し、保存と活用の道が選ばれることになる。竹中工務店が改修を担い、建物を生かした形でホテルとして運営するという決断は、極めて象徴的だ。「残す」だけでなく、「使い続ける」という選択がなされたからである。
そのプロジェクトに奔走した竹中工務店のレガシー活用事業推進リーダー鍵野壮宏氏の「あるべき姿を残したい。その一念だった」という言葉が心に沁みる。何事であれ、最後に物を言うのは“思い”であり、“信念”であり、“熱意”なのだと改めて感じさせられる。
山の上ホテルと言えば、私には2つの思い出がある。
ひとつは、結婚式披露宴の会場候補だったということだ。結局は別のホテルで行うことになったが、当時、この場所を訪れた私と妻は最後まで悩んだ。何よりも、その瀟洒なアールデコ調の造りに強く魅かれた。そして最終的に私たちが出した結論は、「この場は、自分たちには分不相応」というものだった。若輩者の私には、山の上ホテルはあまりにも立派過ぎた。
もうひとつは、菅原文太氏と妻・文子氏との思い出である。二人との出会いと山の上ホテルの休業については、2024年1月23日のこのブログでも書いている。
菅原氏は当時、地方に移り住み、主に農業を営む生活をしていた。俳優としての仕事のときだけ上京し、その際に滞在するのが山の上ホテルだった。いわば定宿である。ドキュメンタリーの語りの仕事を依頼していた私は、打ち合わせのために何度もこのホテルを訪れた。特に奥様の文子氏は、私を息子のようにかわいがってくれ、伺うたびに地方から持参したお土産を持たせてくれた。夫妻には一人息子がいた。俳優として活動しており、あるとき文子氏は私に「息子の舞台を見てやってほしい」と語った。感想や助言をもらえたら嬉しい、と。
しかしその息子は、数年後に踏切事故によって亡くなった。私は夫妻の心境を思い、ただただ涙した。そしてしばらく時間を置いて文子氏に手紙を書いた。それに対して届いた返信の、あまりにも丁寧で、静かで落ち着いた文面を、今でも忘れることができない。
私のこの2つの思い出など、山の上ホテルに積み重なってきた無数の記憶の、ほんの一角に過ぎないだろう。だが、確かにそこには人と人との時間があり、文化があり、人生があった。
そんな大切な人類のレガシーが、消えてしまわなくてよかったと思う。
「BRUTUS Casa」HPより

