【今日のタブチ】その不在の理由とは何か――ハンセン病「追悼式」と沖縄「慰霊の日」に現れなかった高市首相の“責務”を問う
ハンセン病問題に関する追悼式が開かれたという記事を読んだ。式典の場で当事者から上がったのは、「強制隔離は国家犯罪であり、その代表が出席するのは当然の責務ではないのか」という重い言葉だった。この指摘は感情的なものではなく、歴史的経緯を踏まえた極めて論理的な問いとして受け止めるべきものだろう。
実際、この追悼式はこれまで18回行われてきたが、首相が出席したのは2011年の菅直人首相(当時)の1回だけにとどまる。言い換えれば、歴代政権の多くはこの式典に首相が直接出席しないという運用を続けてきたことになる。
同じ日に沖縄県では「慰霊の日」の式典も行われていた。しかし、こちらにも高市首相の姿はなかった。この式典については、1990年に海部俊樹首相が初めて出席して以降、2000年以降は多くの首相が参列してきたが、コロナ禍の2020年・2021年には現地参加を見送るなど、一定の揺らぎも見られる。その意味で、必ずしも一貫した慣例があるとは言い難い。
つまり、形式的に言えば、これらの式典に首相が出席しないこと自体は例外ではなく、過去の運用の中にも一定数存在してきたと言える。また、国会審議や外交日程など、首相の職務が多岐にわたる以上、物理的な制約があることも否定はできない。閣僚による代理出席という形態も制度的には確立している。
ここからは私の私見になる。
高市首相は国会などで「首相としての責務」や「職務への支障」という言葉を繰り返し用いている。しかし、その「責務」とは何を指すのかという点は、改めて検討されるべきではないか。
首相の責務には、予算編成や外交交渉といった機能的な役割がある一方で、国家を象徴する存在としての役割も含まれている。とりわけ、国家が過去に関与した問題や、多くの犠牲者を出した歴史的出来事に向き合う場においては、その象徴的役割の意味は決して小さくない。
ハンセン病問題は、国の隔離政策によって長年にわたり人権侵害が行われてきたという明確な歴史を持つ。沖縄戦に関しても、住民を巻き込んだ苛烈な戦闘の記憶が今なお続いている。いずれも、単なる追悼ではなく、国家と個人の関係を問い直す場でもある。
そうした場において、国の代表が姿を見せるか否かは、単なるスケジュールの問題にとどまらない。そこには、過去に対してどのような姿勢を取るのか、そして現在の国家が何を重視しているのかというメッセージが不可避的に含まれる。
もちろん、すべての式典に首相が出席することは現実的ではない。しかし同時に、「出席すること自体が持つ意味」について十分に議論されてきたかと言われると、そこにはまだ曖昧さが残っているようにも見える。
首相が語る「責務」は、機能的な仕事に限定されるべきものなのか。それとも、歴史や記憶に向き合う象徴的行為もまた、その中に含まれるべきなのか。
今回の不在は、個別の判断として片付けることもできる。しかし、それ以上に、「首相の責務とは何か」という問いを改めて浮かび上がらせた点にこそ、本質があるのではないか。
「日本経済新聞」より


